メディア総合研究所  

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声明・アピール

提言・検察とメディア

2011年02月10日
メディア総合研究所

メディア総合研究所
「検察とメディア」プロジェクト

はじめに――「検察改革」のためにメディアの姿勢が問われるべき

 今、日本の検察のあり方が根本的に問われている。大阪地検特捜部の主任検事による証拠改ざん事件は、現職の検察幹部の逮捕・起訴にまで至り、検察に対する国民の信頼は決定的に失墜した。法務省では2010年11月、有識者らによる「検察の在り方検討会議」を発足させ、検察庁改革に向けた議論を進めている。
 今回、特捜検事の証拠改ざん事件は、メディアの取材・報道によって明るみに出た。ここでは確かにメディアの「権力監視」機能が発揮されたと言えるだろう。しかし、それでは大阪地検特捜部が、証拠改ざんの舞台となった厚生労働省の郵便不正事件を捜査していた段階で、その捜査に対して疑問や批判を突き付けるようなメディアの報道が、はたして存在しただろうか。むしろ、ほとんどすべてのマスメディアが、特捜部が勝手に描いた事件の構図にそのまま乗った形で、後に無罪が確定することになる村木厚子・厚生労働省元局長のことを厳しく断罪するかのような表現をとりながら、ことさらに報道してきただけだったのではなかっただろうか。
 歴史を振り返ってみれば、これまで東京地検特捜部が手掛けた汚職事件などについて、マスメディアは必ず大きな扱いで取り上げ、検察による事件摘発を「社会正義の実現」として持ち上げるような報道を繰り返してきた。社会の不正を許さないという点では、捜査当局と報道機関は目的をある程度共有している側面はあるかもしれない。しかし、これらの特捜事件の報道で、強制捜査権を持つ権力機関である検察庁に対して、メディアが市民から期待されているチェック機能が十分に発揮されてきたのかと問われれば、その実情は甚だ心もとないと言わざるを得ない。
 逆に、多くのメディアは、捜査段階で得た情報を無批判に報道して「特捜神話」の形成に寄与し、結果として無実の人を罪に陥れるような事態にも加担してきたと言われても仕方ないのではないか。そのようなメディアが、自らの検察報道のあり方について真摯な反省や自己検証を行っているようすは、これまでのところ見受けられない。
 メディアのあるべき姿を研究・考察してきた私たちは、検察が今後同じような過ちを繰り返さないためには、メディアが検察に対して適度な緊張関係を保ちながら、健全な監視機能を果たしていくことが不可欠だと考える。政府によって検察のあり方が検討されている今こそ、検察とメディアの関係も根本的に見つめ直す好機だと捉え、議論の一助として以下の各提言を試みたい。

○検察との距離を見つめ直そう

 ほぼ一年前、新聞としては異例なことが起きた。主要五紙の社会部長らが、小沢政治資金疑惑をめぐる「リーク報道批判」という同じテーマについて相次いで「反論」記事を書いた。主張の内容は、検察取材は困難なもので「地をはうような取材を文字通り、命を削って日々行っている」(産経)と取材実態を説明し、「当局のリークで書いている記事はない」(朝日)との趣旨で共通している。ただし、一部には「だから報道を信じろ」と"居直り"とも感じられる論調があったのは残念だ。「集めた情報の中にすら、ある意図を持って流されたものがあるのを経験的に知っています」(東京)や「結果的に検察の意図が働いたかのように見えるケースもあるかもしれない」(毎日)といった謙虚な説明もあったが、各「反論」で読者が納得したかというとやや疑問だ。
 「検察情報の吟味」をどのようにしたかなど「情報操作」されていないことを読者に理解させることは非常に難しい課題だ。むしろ、メディア側が今後、読者に分かるようにしていかなければならないのは、「疑惑」に関わる報道姿勢と表現にあるのではないか。
 「疑惑」は一般に、次のように整理できる。つまり、「疑惑」とされる行為にはA=違法行為と、B=現行法令では規定がないために処罰対象となりえないが、該当する行為が①新たな法規制の必要性を踏まえて問題提起すべきと考えられるもの、②法律上ではなく社会通念や政治などの倫理上問うべきもの(違法行為のうち、時効になったものも含む)――がある。検察はあくまでAのタイプの追及が仕事だが、Bのタイプの追及はメディアの力によるしかない。
 起きたことが明らかな「犯罪」とは異なり、「疑惑」とは、これらのタイプが一つだけでなく複数組み合わさっている姿を総称していて、起きたことが「明らか」かどうかは証明の途上にある状態をいう。これまでの疑惑報道ではこれらのタイプを区別せず、混然としたまま報道してきたのではないだろうか。このため、読者の中には報道された事実のすべてが「違法行為」であるかのように受け取った人も多かったはずだ。「検察捜査の結果、"不正な"金は一切受け取っていないことが証明された」との小沢氏の発言は、「不正」と表現することですべての「疑惑」のタイプをひとつに丸飲みしてしまうレトリックが巧妙に使われている。そのことをメディアが見破って批判できないのも、メディア自身に「疑惑」のタイプを区別できていないからだ、といえないか。
 事実を集め、それによってある種の「像」を描くという意味で、捜査と取材は似たようなものだ。中でも「疑惑」は、ジグソーパズルをするようなものだ。しかし、根本的に異なるのは、ゲームの場合は「元の図(全体像)」を知っていてパーツを当てはめていくが、捜査や取材は「元の図」を知らないところから始める困難さがある。だから、集めた範囲の中で全体像を想像するしかないが、事実が想像した図に当てはまらなければ、図の方を事実に合わせることが何より大事となる。これはメディアも検察も同様であることは言うまでもないだろう。
 「疑惑」として伝えようとしているタイプを意識することで、本来の目的が違う検察とメディアの位置関係を自覚できるはずだ。その上で、読者が疑惑の内容を区別して理解できるよう、疑惑のタイプに合わせた丁寧な報道スタイル(表現)を工夫して生み出すことが必要なのではないか。

○取材体制と仕事の評価も再検討を

 特捜検察に限ったことでもなく、事件・事故報道に限ったことでもないが、記者の仕事の評価は、メディアの内部では同業他社との比較が基準になっている。特ダネとは、他社が報じていないことを自社が先駆けて報じる大きなニュースのこと、という定義を、新聞・放送の各メディアもそこで働く記者たちも共有している。横一線の競争の中で、もっとも「勝ち負け」が明確になるものの一つが事件報道の「前打ち」であり、捜査機関が誰を何の容疑で逮捕するのかをいち早くつかみ、報じることだ。中でも特捜検察事件の前打ちは、政官界に関するものならほぼ間違いなく新聞1面もの、という大きな扱いがされてきた。
 特捜検察事件の前打ちで後れを取ると、担当記者の面目は丸つぶれだ。内偵捜査の情報をつかむのが遅れると関連取材も後手に回り、続報でも他社に抜かれっぱなしということになる。このことは、一面では担当記者の増員の要因になってきた。大規模な事件では取材も報道も大規模になるが、加えて大きな事件ほど他社に後れを取ることは許されない。この二〇年ほどの間に、一時的な増減はあるにせよ、東京の司法記者クラブで検察を担当する記者の数は各社ともおおむね倍増。全国紙でかつては二人だった専任記者が、佐川急便事件(1992年)や故金丸信元自民
党副総裁の巨額脱税事件(93年)、ゼネコン汚職(93~94年)などを経て三人となり、今は四人態勢の社もある。自らの報道で「特捜神話」を振りまきつつ、特捜検察の事件は記者の配置の上でも大きな比重を占めるようになった。
 政界事件などでは、司法クラブ所属以外の記者も加わって大人数の取材班が編成される。地検特捜部をはじめ検察を直接取材する担当記者の仕事は、まず第一に特捜部の次の一手は何かをつかむことであり、容疑者の逮捕や関係個所の家宅捜索の際には、正確なタイミングで前打ち記事を発することとなる。前打ち記事は、本来はそれ自体が悪いのではない。検察がどう動くかによって社会に大きな影響がある場合、検察の動向は社会が共有すべきニュースだからだ。問題は、前打ち記事を最優先で考えるがために、報じなければならないテーマを報じていない、そういうケースがあるのではないかということだ。
 物証の改ざんはともかく、特捜検察の捜査手法として、あらかじめ描いたストーリーに沿うように容疑者や参考人の供述、証言を強引に調書化していくことに多々問題があることは、例えばリクルート事件の公判段階で、リクルート社元会長の江副浩正氏らが再三、取り調べの強引さを訴えたこともあり、これまでも検察担当記者なら気付く可能性があったはずだ。しかし、正面からこの捜査手法を問うたメディアの報道はなかったに等しい。それはなぜなのかを考える必要がある。メディアが横一線で「前打ち報道」に血道を上げる状況を見直し、事件報道で評価に値する記事、評価に値する取材とは何かを再考し、ひいては記者の仕事の評価基準の再構築を図るべきだ。
 特捜検察事件の取材報道で付きものの慣習に、捜査妨害などを理由として検察当局が特定のメディアの取材を一方的に拒否する「出入り禁止」処分がある。検察当局からの出入り禁止処分を恐れるがあまりに、メディアは検察当局からのリーク情報を垂れ流している、との批判があるが、実態は少し異なるだろう。出入り禁止になっても情報源をつかんでいれば情報は取れる。代々の検察担当記者が恐れたのは出入り禁止処分ではない。それは他社に後れを取ることであり、記者としての評価が下がることだったのではないだろうか。

○人質司法など、刑事司法の構造問題の批判を

 郵便不正事件では、大阪地検特捜部が、村木厚子・元厚生労働省局長を強引に起訴に持ち込もうとして、村木元局長の元部下らから意に反する虚偽の供述調書を山のように取っていたことが明らかになった。なぜ元部下らは、事実とは異なる内容の調書に署名してしまったのだろうか。これについて元部下は、「検事の言うことを聞かなければ、このままずっと拘置所から出られないのではないかという恐怖に襲われた」という趣旨を語っている。
 勾留の制度は、本来は証拠隠滅や逃亡を防ぐために認められている。だが実際には、自白しない者に対する「懲らしめ」として、あるいは捜査当局が被疑者や被告人をそれによって脅し、言うことを聞かせるための武器に使っている、との指摘が以前からなされてきた。「人質司法」と呼ばれる実態だ。勾留を決めるのは裁判官だが、検察官に意見を徴するため、現実には検察官の言いなりになっているのではないかという疑念も持たれている。「人質司法」は検察捜査には限らず、鹿児島県議選事件や、あるいは多くの痴漢事件など、警察の捜査においても多用されている、と言われる。
 たしかに司法統計をみると、被告が自白した場合に比べ、否認している場合に身柄拘束が長期化することは一目瞭然だ。まず、保釈率自体が1972年の58.4%から2003年の12.6%にまで減少してきた。身柄拘束がいかに安易に行われているかがわかる。さらに身柄拘束の期間を見ると、自白事件においては1964年から2005年までの間、ほぼ65%前後の人が第一回公判の前に保釈されているのに、否認事件で第一回公判前に保釈される人は、64年に58.3%だったものの、05年には36.1%にまで下がっている。
 この実態について元検事の郷原信郎氏は「検察は正義であって、その正義に刃向っている人間っていうのは、どこかに閉じ込めておかれても当然だというのが検事の考え方です。反省して、改心して検察の正義を認めるまで閉じ込めておくことが正当化されるんです」と語っている。
 勾留制度の誤った運用が、冤罪を生む一因になっていることは明らかだ。
 メディアは、現行の刑事司法運用の枠内で、いかに捜査当局と被疑者・被告側の対等報道を実現するかといったことにだけ目を奪われず、冤罪の温床である刑事司法のゆがみ自体に取材で斬りこみ、それを是正させる報道を展開すべきだ。そうでなければ、どんなに努力しても冤罪は起こり、メディアには「冤罪づくりの片棒を担ぐ」おそれが付いて回るだろう。ようやく検察特捜部も批判し始めたメディアは、さらに一歩を進めて、理不尽な「人質司法」などの是正についてもキャンペーンを張ることが喫緊ではないかと考える。

○司法全体にも批判的な視点を

 「特捜神話」は、メディアだけによって形成されたわけではない。日本の法曹関係者、とくに裁判所が、検察の「無謬神話」に"貢献"してきた側面は否定できないだろう。
 日本の刑事裁判の有罪率は99.8%という極めて高率だとされているが、その理由は検察が優秀だからということでは必ずしもない。裁判所において、検察の有罪立証は正しいであろうということを出発点としているかのような判断がなされ、裁判官が旨とすべき「無罪推定」の原則とは逆転しているのではないかと思われる場合もある。また、裁判所が発する逮捕令状や捜索令状についても、裁判官がチェック機能を果たさず、捜査当局の要請をほとんどそのまま認めている実態がうかがえるし、検察側の「証拠隠滅や逃亡のおそれがある」という主張を鵜呑みにして、被疑者・被告人の保釈を認めないケースも数限りない。
 これには、たとえば「判検交流」と称して、裁判官と検察官が定期的に人事交流する関係を保っていることなどから、裁判官と検察官の間の心理的な距離感が極めて近いものとなっている疑いが拭えない。実際、元裁判官の木谷明・法政大学法科大学院教授は、朝日新聞記者によるインタビューに対して「検察が描いた筋書き通り事実認定しているだけの裁判官は少なくない」などと語り、検察問題をめぐる裁判所の責任について言及している(朝日新聞2010年10月4日紙面より)。
 そういう関係性のなかでは、もっぱら司法関係者を取材対象とするメディアの記者たちも、関係者らと同じようなマインドを持つようになったとしても無理からぬところであろう。メディアの記者はそこから脱却して、裁判所もまた強制力を持った国家権力の一部として監視・チェックの対象とするよう、はっきりと意識することが求められる。検察による逮捕・起訴についてはもちろんのこと、裁判所の判決に対しても、人権重視の観点から果敢に批判を加えるような報道を期待したい。そのためには、事実上限定的な法廷の公開を、テレビ中継も含めて拡大するようにさらに働きかけることや、現役の裁判官への取材も可能な限り積極的に取り組むことも一策だと考える。
 また、裁判所は、行政機関を対象にした現行の情報公開法の適用対象外とされ、裁判所の運営などに関する行政情報の開示については、その基準が裁判所の内規のレベルで規定されているにすぎない。これは法制度上の不備と言わざるを得ないが、メディアは裁判所の情報公開という観点から、積極的な姿勢で取り組む必要がある。裁判所にさまざまな情報開示を求めるとともに、裁判所を対象にした情報公開法制の整備を社会に訴えていくことが求められる。
 

○捜査の全面可視化と証拠リスト開示義務

1.捜査の全面可視化
 捜査の全面可視化とは、刑事事件被疑者の取り調べ過程のすべてを録音または録画すべきだとする構想である。全面可視化要件を満たしていない供述調書は、証拠能力を認めない(証拠として調べることを禁止する)ものとすべきだ。
 なぜ誤判が重なるのか。密室で行われた取り調べに違法がなかったかを第三者の目で検証する確実なすべがなかった。いったん自白調書が作られると、「やってないものがやったというはずはない」という「常識」にとらわれて裁判官が有罪の結論を書いてきた。どうやって自白調書が作られたかに目が向いていなかった。可視化をしない限り、裁判員といえども「自白信仰」から自由ではありえない。
 検察・警察は、可視化すると被疑者に真実を言わせることができなくなるという趣旨の見解を述べている。被疑者に取調官が胸襟を開き、信頼関係を構築してやっているものに真実を言わせるのは、誰も見ていない一対一の関係――密室――であるからこそ可能だというのである。しかし、自白プロセスも第三者によって検証されなければ冤罪は防止できない。密室取り調べ至上論は、捜査側が犯人だと睨んだ人が真犯人だという仮説を真実だとして譲らない考え方である。それを被疑者の言葉から引き出す(実は押し付ける)場面を可視的にすることを恐れているのがこの人々の主張である。反論は説得力がない。
 現在、警察・検察は裁判員対象事件について、「一部可視化」を試行している。法務省の「検察の在り方検討会議」においても、最高検は一部可視化の提案をするとの報道もなされている。
 一部可視化とは、すでに自白をした被疑者の最終取り調べだけを可視化しようというものである。いかなる過程を経て自白に至ったかが焦点であり、その過程を省略すると検証ができない。被疑者の自白プロセスを省略して自白を採用すれば、自白の任意性、信用性について検証する手段は奪われる。弁護側も自白のウソを争う手段を封じられ、誤判の危険は一層拡大する。従って一部可視化はなすべきではない。
2.検察の手持ち証拠リスト開示義務
 無実を晴らした人々の法廷で、検察側が無罪に結びつく証拠を隠匿した事例が指摘されてきた。警察・検察は公費を用いて捜査を行っているのであるから、収集された証拠は公的な資産である。従って、検察の手持ち証拠は全部開示すべきものという考え方には説得力がある。少なくとも当面、検察官手持ち証拠リストすべての開示義務を謳うべきである。また、検察官が証拠の隠匿をした場合は、懲戒処分の対象とする制度を設けるべきである。
 以上二つの提案には、警察・検察とも消極的である。それは、捜査の根本的改革につきメディアから体系的論陣が張られていないこともあるのではないだろうか。今後、このテーマは国会における法案審議と立法の過程を経ることになる。国民に大きな影響力をもつメディアの責任は重い。
今こそ冤罪防止の最大のチャンスとして、メディアに一層の奮起を促したい。

以 上