声明・アピール
「裁判員制度」に対するメディア総合研究所の見解
2003年12月4日
メディア総合研究所
メディア総合研究所
所長 須藤春夫
政府の司法制度改革推進本部は、市民も司法に参加する「裁判員制度」の導入を検討し、「裁判員制度・刑事検討会」で、議論が進められている。10月28日には、「考えられる裁判員制度の概要について」という、検討会の「座長案」も示された。
司法制度の改革によって「開かれた司法」をめざすためには、この裁判員制度以前に改めなければならない現状がある。
たとえば、法廷公開の原則からすれば、傍聴希望者が殺到するような公判の場合には、法廷内のようすを撮影して別室でモニターできるような設備を整えたり、さらにテレビなどによる法廷内からの中継放送を実現させたりすることは、諸外国の実例を踏まえても十分検討に値する。また、裁判官の人事の基準や裁判官会同・判例研究の実態など、裁判官や裁判所に関する情報公開はほとんど省みられていない。さらに、最高裁が民事判決の一部については当事者に判決期日を事前に通知しないことや、報道機関には提供している重要事件の判決要旨・骨子を一般には公開しないことなど、司法行政の上で市民不在と言える現状も、改めるべき時期に来ている。「市民に開かれた司法」を真剣に考えるならば、現状の司法の公開のあり方そのものを、多角的・根本的に見直す必要があることを強く指摘したい。これらについては、制度的な改正を待たずに、裁判官の訴訟指揮ですぐにでも改められるものも少なくない。
また、現状では職業裁判官自身の表現の自由が保障されているとは到底言えない。公判中はともかく、判決後に裁判官の意思形成過程などを取材・報道することによって、判決がもたらす社会的な意味について、さまざまな角度から一般の市民も考える機会を得ることができるとすれば、それこそが司法の透明性確保のために有効に機能するのではなかろうか。職業裁判官への取材の自由の原則を確認し、裁判員制度導入の検討を機に、職業裁判官自身の表現の自由を積極的に保障すべきである。
憲法で司法の公開原則がうたわれながら、実際には密室性・閉鎖性がしばしば指摘されてきた日本の司法の現状に照らせば、裁判員制度などの導入によって、一般の市民が司法手続きに自ら参加し、司法の公開性・透明性を高めることは必要である。
しかし、現在検討されている裁判員制度の内容には、多くの懸念材料がみられる。とくに、憲法が保障する表現・報道の自由を不当に侵害するおそれがある。
まず、裁判員(裁判員経験者らを含む)への接触を禁止することで、取材の自由を直接的に規制している。
「座長案」によると、裁判員の氏名以外の個人情報は非公開とされ、報道機関などは公判中も公判後も、報道目的での裁判員への接触を禁じられる。これでは、ある裁判員に不正や適格性の欠如などの問題があったとしても、それを報道で指摘し、社会に問題提起することはできなくなるおそれがある。また、裁判員制度が始まって、その功罪をメディアが検証しようとしても、報道機関が評議のあり方について裁判員に接触することができなければ、報道としての社会的責務が果たせなくなる。これでは、権力行使の一端を担うことになる裁判員=公人に対するメディアの監視機能を低下させ、報道の自由を不当に規制するものと言わざるを得ない。
次に、裁判員に対する厳しい罰則付きの守秘義務規定には反対であり、職業裁判官と同じく、合議内容の守秘のあり方については倫理上の原則に留めるべきである。
公判中はまだしも、公判終了後も知りえた事実について裁判員に守秘義務を負わせるのは、裁判員自身の表現の自由を不当に侵害する。裁判員の経験や教訓を社会が共有できなければ、「国民の司法への参加」という裁判員制度の趣旨そのものにも反することとなる。
また、準備手続きにおいて証拠類の開示の判断を検察側に委ねている点にも問題がある。さらに、審理以外の目的に使用すれば罰則が適用されるとしていることは、被告側に有利な情報を報道に提供することなどを禁止するもので、これも取材・報道の自由に抵触する。
そして、事件や裁判の報道の内容に踏み込んだ規制が行われるおそれがある。
「座長案」では、「何人も…事件に関する偏見を生ぜしめる行為その他の裁判の公正を妨げるおそれのある行為を行ってはならない」として、事件や犯罪の報道に一定の枠を設けようとしている。また、以前の「たたき台」の段階では、報道機関に対して「偏見を生ぜしめないように配慮しなければならない」としていたが、新聞協会や民放連などの要請もあり、「座長案」では「報道機関において自主的ルールを策定しつつあることを踏まえ、さらに検討するものとする」とされている。
たしかに、犯罪報道において扇情的・一方的に陥るような報道は批判されるべきであろう。報道に携わるものは、犯罪報道が何のためにどこまで必要なのか、自問すべき段階にきている。しかし、報道の表現・内容にまで立ち入って法的な規制を加えようとするのは、報道の自由を侵害し憲法に違反する。さまざまな視点を提示して、多角的な議論のための材料を提供するのはジャーナリズムの社会的使命である。冤罪の可能性が高いと判断して捜査・裁判のあり方を追及する報道は「偏見を生ぜしめる行為」として規制されてしまうのか。それでは裁判の公正を監視する報道活動が封殺されてしまう。仮に、報道機関の自主的ルールが尊重されたとしても、その前提に「何人も…裁判の公正を妨げるおそれのある行為を行ってはならない」という規定がある限り、実質的には意味を持たないとも考えられる。
このような考え方は、民主主義社会に不可欠な「表現の自由」を軽視している。裁判を社会の批判から隔離された聖域にしてはならない。報道内容の是非などについては市民が主体的に判断すべきもので、報道内容の向上は法規制などによるものではなく、報道機関の自律や市民からのフィードバックによって実現されるべきものである。
事件・犯罪報道の問題を考えるにあたっては、現状の犯罪捜査のあり方も検討されなければならない。裁判所による令状審査がほとんどチェック機能を果たしていないこと、捜査段階での当局による情報操作や被疑者への人権侵害を起こしやすい代用監獄制度の問題、検察による限定的な証拠開示などの改善が急務である。現在の刑事手続きにおける「偏見を生ぜしめる行為」を正すことなく「偏見報道」のみを問議しても、司法の「国民的基盤」へ向けた正しい道筋になるとは思われない。
以上