メディア総合研究所  

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声明・アピール

これからの放送を考える~メディア総研からの提言

1997年10月31日
メディア総合研究所

メディア総研では10月31日に以下の内容で、「これからの放送を考える」と題し、提言を発表しました。

「これからの放送を考える~メディア総研からの提言」

目 次 

はじめに

第1章 放送の現状
 (1)放送の全体像
 (2)デジタル化
 (3)放送とジャーナリズム機能
 (4)番組制作構造の内包する問題
    ・放送局サイドの問題点
    ・プロダクションサイドの問題点
    ・派遣・フリーの問題点
    ・視聴率至上主義

第2章 放送概念の再検討
 (1)なぜ「放送概念の再検討」なのか
 (2)提言・「放送」と「非放送」の区別を

第3章 提言
 (1)放送の自由と規制のあり方
 (2)視聴者・市民の権利救済
 (3)放送行政機関のあり方
 (4)番組制作構造の改善のために
 (5)制作者の権利
 (6)視聴率問題
 (7)経営の公開と視聴者・市民参加
 (8)メディアリテラシー
 (9)ジャーナリズム機能の強化




 いまメディア界、なかでも放送メディアは、デジタル化による大きな変革の波で大揺れに揺れている。アメリカに次いで日本でも1996年10月にスタートしたパーフェクTVによるデジタル衛星放送は、多チャンネル化に拍車をかけ、さらに98年にかけてはJスカイB、ディレクTV、スカイDといったデジタル衛星放送が目白押しに放送開始の準備をしているのが現状だ。
 こうしたデジタル衛星放送は単純に計算してみても四〇〇チャンネル近くになる。BS放送、ケーブルテレビ、さらにはインターネットと相まって地上波放送ヘの影響が免れ難いことは言うまでもない。追い打ちをかけるように、97年3月10日には、地上波デジタル化の前倒し計画まで郵政省は明らかにした。いわば視聴者の存在を全く無視したまま地上波放送のデジタル化を強行しようとしているのである。これに対し、NHK、地上波民放とも経営陣の反応は極めて純い。なかには、かつて最盛期を誇っていた日本映画の経営者たちの、テレビという新しいメディアが出現したときの対応ぶりと酷似している、という声も聞かれるほどである。
 しかも、郵政省はメディア環境の大きな変化を捉え、「多チャンネル時代における視聴者と放送に関する懇談会」(多チャンネル懇)を設置し、多チャンネル化によって「質の低い番組が増加する」「放送される番組の編集責任に対する認識が希薄化する恐れがある」などの点を挙げ、Vチップの導入、苦情対応の第三者機関の設置など、規制強化の方向を打ち出そうとしたのである。しかし、各方面の強い反対によって最終報告では、Vチップの導入は断念し、第三者機関の設置についてもNHK、民放による自主機関「放送と人権等権利に関する委員会機構」が設置される結果となった。
 それにしても、この懇談会を通じて明らかになった、郵政省の放送番組に対するコントロール・マインドの根強い底意は、拭い去ることができない。しかも、地上波を含めた放送のデジタル化といった放送行政の重大事項を「懇談会」の報告をもって既成事実のように決定する「懇談会方式」は民主主義の原理とは相反するものだと言わざるを得ない。
 こうした状況の中で、当研究所は特別プロジェクトを結成し、視聴者の立場から、これからの放送、なかでもテレビはどうあるべきか、また放送行政はどうあるべきかについてのさまざまな検討をすすめてきた。以下に報告するのはそのまとめであり、21世紀を見据えた「これからの放送」についてのわれわれの問題提起である。




 放送が揺れている。戦後半世紀にわたって続いてきたNHK―地上波民放の独占・併存体制の弊害は“金属疲労”となって、様々な問題を引き起している。最近の事例に限ってもNHKムスタンやらせ問題(93年)、テレビ朝日椿発言問題(93年)、TBSオウム真理教ビデオ問題(95年)、苦情対応機関問題(97年)、ペルー日本大使公邸人質事件報道問題(97年)、CM“間引き”問題(97年)など枚挙にいとまがない。問題が起こるたびに過剰な行政の介入が繰り返され、ジャーナリズム機関であるべき放送界は、自浄作用を働かせることなくその機能を自ら弱体化させている。
 一方、デジタル技術の進展にともない、多メディア多チャンネル時代が現実のものとなり、技術的には通信と放送の融合が可能となった。その結果、国際メディア資本によるビジネス展開が激しさを増し、日本においてもマードックに代表される外国資本の参入でソフトの争奪戦が一層激しくなり、スポーツイベントや映画などの番組ソフトの急激な高騰を招いている。
 放送はいったいどこへいこうとしているのか。




�媒体種別から見た放送
 第一次世界大戦後のアメリカで、双方向の無線(ラジオ)から受信だけに絞って産業化してきた放送は、瞬く間に世界に飛火した。日本においても、戦前のラジオ時代から戦後のラジオ・テレビ時代ヘ、そして地上波と衛星波が併存する時代へと入って、一挙に多メディア化、多チャンネル化が進んだ。
 現在、放送法に規定される「放送」は、NHK、放送大学学園、一般放送事業者の三者に分けられる。さらに、一般放送事業者は、既存の地上波民放や日本衛星放送(WOWOW)のような「免許」を得た放送事業者と、CS放送のような「認定」による委託放送事業者および「免許」による受託放送事業者に区分される。
 媒体種類ごとでは、さらに多岐にわたる。地上波放送は、テレビ(VHF、UHF)とラジオ(AM、FM、短波)に分けられるが、そのラジオも、既存のNHK・民放に加え、放送対象地域を広域化した外国語FM局(東京、大阪、福岡で開局済)や市町村単位のコミュニティFM(全国で97年6月1日時点で七三局が開局)が次々と放送を始めているのが現状だ。また、テレビ、ラジオに多重する放送として、テレビでは音声多重放送、文字多重放送(専門会社九社)、データ多重放送がおこなわれている。
 一方、衛星波はBSとCSに分けられる。BSはNHK二チャンネル、WOWOW一チャンネル、ハイビジョン実用化試験放送一チャンネルの四チャンネルが放送しており、この他に多重放送として独立音声放送とデータ放送を行っている衛星デジタル音楽放送(セント・ギガ)がある。また、CSは委託放送事業者(ソフト供給業者)と受託放送事業者(通信衛星事業者)に大きく分けられており、現在、受託事業者は日本サテライトシステムズ(JSAT)と宇宙通信(SCC)の二社。委託事業者は、アナログ系でテレビ14社、PCM音声放送一社。デジタル系でテレビ五四社九三チャンネル、音声放送五社一〇五チャンネル、データ放送一社を数える(97年10月1日現在)。話題となっている顧客管理会社(プラットフォーム事業者)のパーフェクTVは、法制度上は想定されていないのが現状だ。
 このような地上波系、衛星波系の放送のほかに、有線系のケーブルテレビ(有線ラジオも含む)が「放送」の範囲に含まれる。しかし、インターネットに代表されるコンピュータメディアは、メモリー容量とソフトウェアの進歩によってすでに音声“放送”を可能とし、さらに映像伝送をも可能としているが、法制度上は「放送」ではない。また、専門チャンネルを売り物とするCSデジタル放送は、従来の放送概念には当てはまらない“情報提供”サービスの面も持っている。

�放送の産業規模
 このように複雑多岐な多メディア多チャンネル時代を迎えた放送ではあるが、産業規模で見れば、NHKと地上波民放の独占体制に大きな変化はない。
 ケーブルテレビも含めた日本の放送産業の96年度の総収入は、三兆三一六億円。そのうちの実に94%にあたる二兆八四九三億円は地上波民放とNHKのそれである。「バブルを超えた」とまで言われる96年度の地上波民放の決算は二兆四六四九億円(一八四社;民放連データ)で前年度比7・9%と他産業から見れば信じられないほど高い伸び率となり、また、経常利益も総額二二四三億円で同様に7・5%の高い伸びを示した。
NHKの97年度予算も、BS放送の好調な伸びに支えられて六一〇九億円と初の六〇〇〇億円台となった。多メディア多チャンネル状況と喧伝されるのとは裏腹に、放送産業における市場の寡占化は進んでいるのである。別項で述べるプロダクションとの構造的問題は、こうした市場の寡占化が内包する負の部分であり、CM間引き問題のような不祥事を引き起こす土壌を生み出してもいる。
 この寡占市場がどのように変化していくのか、その動向が大きなカギとなっている。




 放送をとりまく環境を大きく変える最大のキーワードは「デジタル化」である。  そして、放送のデジタル化を“放送革命”と称して旗を振るのは、80年代のニューメディアブーム以来、幾多の失策を繰り返してきた郵政省であるが、その姿勢は、自らの権益となる規制は温存しながら、放送文化の育成よりは、もっぱらメディアの“産業”振興に走っているといっても過言ではない。
 例えば、97年6月に郵政省が最終報告を発表した「放送高度化ビジョン」は、表2のような“放送の未来”を描き出していて、ジャーナリズムとしての放送が果たすべき社会的役割についての言及は全くない。

�多難のCSデジタル放送
 そのような郵政省のデジタル化計画を具体化しているのが、CSデジタル放送である。96年10月にパーフェクTVがスタートし、97年末にはディレクTVとマードック・孫連合にフジテレビ、ソニーが加わったJスカイBが続こうとしている。計画どおりにいけば、2000年の日本は、四〇〇チャンネルの超多チャンネル時代を迎える。その計画をまとめたのが、表3である。
 しかし、郵政省は早急な制度化を図るため、放送法改正を行わず、自らの裁量で変更可能な省令改正によってCSデジタル放送の強引な導入を図った。このため、CSデジタル放送事業者は、政治的公平、公序良俗などの番組編集準則や災害報道義務規程、訂正放送制度、番組審議機関の設置義務など、従来の放送事業者と同様の責務を負うことになった。その一方で、こうした義務規程と矛盾するポルノチャンネルなどを郵政省は認定しているのであるから、行政は守るべき法制度を自ら逸脱しているともいえる。
 事業的にもパーフェクTVの経営は苦戦を強いられており、早々と社長のすげ替えも行われた。ディレクTVのスローペースぶりやアメリカで衛星事業から事実上の撤退を余儀なくされたマードック氏の動向もからんで、プラットフォーム三社の合併説も根強くある。個々の委託放送事業者も、年商一〇億円程度の売上げ規模では調達・制作する番組にも自ずと限界があり、この壁を超えるのには時間がかかりそうだ。

�どうなるBS、地上波のデジタル化
 先行するCSデジタル放送を牽引車にして、郵政省はBS放送と地上波放送のデジタル化計画を次々と打ち出した。しかし、地上波放送のデジタル化は、ほぼ全世帯に普及したテレビ・ラジオというインフラの転換であり、生易しい問題ではない。郵政省は97年6月から「地上デジタル放送懇談会」を設け、検討を開始しているが、官僚が机上で構図を描くだけでは、実施は不可能だ。
 なによりも、日本の周波数事情が大きな障害になっている。NHK・民放あわせてテレビだけで一四八〇〇局にのぼる中継局を高密度で利用している日本では、デジタル用の波の確保は困難を極める。この確保が明らかにならなければ、地上波デジタル放送は根底から崩れることになる。
さらに、ラジオ用の周波数確保も大きな課題だ。そのうえ、視聴者にとってはデジタル化がもたらすメリットがまったく見えてこないのだ。これでは、無用な混乱を招くばかりである。
 BS放送についても、2000年に打ち上げ予定のBS―4後発機でデジタル方式を導入し、あわせて委託・受託事業者制度を導入することが決められたが、BS放送への参入を表明する地上波民放も、いったいBS放送で視聴者に何を提供しようというのか、その具体案は今に至るも見えてこない。
 そのような状況にあるにもかかわらず、デジタル化計画は放送現場に大きな影を落としている。空前の好景気に沸いた地上波民放のキー局首脳は、その利益を番組制作に注ぎ込むことなく新社屋建設やデジタル化設備投資に回すことを明らかにしていて、番組制作費のいっそうの削減、低コスト化が進むとみられるからである。視聴者不在の産業“振興”の旗は、ここでも行き詰まりをみせている。

脆弱なジャーナリズム基盤 
 「椿発言問題」は日本の放送ジャーナリズムの脆弱さをものの見事に露呈した。しかも、放送企業の「負の構造」ともいうべき構造的な欠陥は、さらにその一年半後には「TBSビデオ問題」を生み出していくのである。 
 こうした放送ジャーナリズムの脆弱さには、さまざまな要因がある。まず、戦前のメディアの歴史は、まさに国家権力による規制と干渉によって傷だらけの歴史だったといっていい。1925年に放送を開始したラジオも例外ではなかった。「無線電信法」に基づく「放送用私設無線電話規則」によってがんじがらめに規制され、国家の「上意下達装置」としてだけ機能し、ジャーナリズムとはなり得なかった。 
 戦後、日本の放送制度は大きく変わった。占領下で放送の民主化が進められ、1950年には電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)が施行され、NHKの独占体制に終止符をうって民放の参入が認められるようになったからである。 
 だが、敗戦後も戦前的な考え方を引きずってきた政府としては、電波三法の根幹となる電波監理委員会を設立当時から軽視し続け、サンフランシスコ平和条約によって独立した途端、廃止してしまったのである。その結果、電波監理委員会が持っていた権限は郵政省に移管され、以降、郵政省は、その強大な権限を掌握することになった。 
 こうして政府・与党は、機会を捉えては放送法の規制強化を試み、さらには行政指導によって放送への規制を強めようとしてきたのが戦後の放送の歴史だったといっていい。この間、51年には民放ラジオ、53年にはテレビが発足し、新しい放送ジャーナリズムへの挑戦が始まった。 
放送ジャーナリズムと技術革新 
 だが、テレビの場合、重い一六ミリカメラしかない状況で、映像メディアとしての地位を確立するのは容易なことではなかった。そんななかでテレビ独自の報道番組としてNHKの『日本の素顔』や日本テレビ『ノンフィクション劇場』などのドキュメンタリー番組が登場したものの、権力の厚い壁にぶつかることになる。その結果、テレビ・ジャーナリズムとして大きな可能性を秘めたドキュメンタリーを後退させ、ニュースですら当たりさわりのない内容になっていった。 
 特に民放の場合、経費ばかりかかって視聴率の上がらないニュースを最小限に抑え、キー局のネットワーク番組を垂れ流した方が利潤が上がるため、ニュースはアクセサリーに過ぎないという報道=「アクセサリー論」が幅を利かせたほどである。いわば民放は当初から「ジャーナリズムの論理」よりも「資本の論理」を優先させ、視聴者を広告効果の客体としてしか捉えない姿勢を強くもっていたのである。  こうしたテレビ・ジャーナリズムの「冬の時代」という閉塞状況を打ち破ったのが70年4月に登場した青森放送の『RABニュースレーダー』であり、75年4月に放送を開始したNHKの『ニュースセンター9時』だった。 
 青森放送の『RABニュースレーダー』は視聴率的に見ても、また営業的に見てもニュースが大きな「武器」になることを実証し、民放地方局にローカルワイドニュースを普及させる大きな契機となった。またNHKの『NC9』は、それまでのニュースの在り方を変革させるための「起爆剤」的な役割を果たしたと言っていい。 
 こうした新しい動きを支えたのがテクノロジーだった。つまり、ENG(Electronic News Gathering)の出現である。中継も可能な超小型のビデオ収録システムは、またたく間に一六ミリカメラを追放し、テレビニュース取材の主流となってしまったのである。しかも、このようにハードの変革は、テレビの重装備というハンディキャップをなくし、ラジオと同じように身軽なメディア化を実現したのである。しかも、通信衛星の大幅なコストダウン、さらにはSNG(Satellite News Gathering)の出現で、世界各地から自由に映像を送ることが可能となった。こうして世界各地で起きる事件・事故をリアルタイムで茶の間に伝えることが可能となったのである。 
 こうした状況を背景に「報道の時代」が叫ばれはじめ、大型報道番組がプライムタイムに次々と登場するとともに、ワイドショーの時間枠も大幅に増えていくことになった。 

依然として「資本の論理」を優先
 本来ならば、テレビのジャーナリズム機能はこうした状況の変化を追い風にして強化されたはずである。にもかかわらず、さまざまな問題が噴出し、テレビ・ジャーナリズムが鋭く問われるようになったのは、なぜだろうか。その原因の一つは、依然として「ジャーナリズムの論理」よりも「資本の論理」を優先させているからである。  その端的な現れが報道局の人員シフトであり、視聴率至上主義だと言っていい。  報道の人員は、報道番組が大幅に増えているにもかかわらず、キー局ですら全国紙の半分以下というのが現状である。その結果、報道現場では残業に次ぐ残業の日々が続き、平時で月間一五〇時間を超える残業が普通だという。こうした状況では専門分野の勉強どころか、発表ものをこなすのが精一杯で、調査報道を手掛ける余裕など全くない。
 しかも、ハードの変革で世界各地から事件や政変などがリアルタイムで飛び込んでくる現在、本来ならば、それを瞬時に判断し、コメントできる深い知識と見識を持った専門記者が要求されるわけだが、担当が六ヵ月から二年くらいでくるくると代わる現場の状況では、専門記者が育つ素地がほとんどない。その結果、発表ものを垂れ流し、現実追認の積み重ねとなって、権力の監視や世論形成の任は果たせないということになる。
 また、分刻みの視聴率調査が公表されるようになってから、部長、デスクはもちろんのこと、現場記者にまで視聴率重視の傾向が強まり、結果として天皇・皇室報道やオウム報道に象徴されるような「横並び」報道、「過剰」報道の弊害に陥っている。
 こうした状況が生み出されるのは、経営者が「資本の論理」を優先させる結果、記者、制作者たちも自覚がないままに企業防衛という立場から「企業の論理」に振り回されているからだと言える。だが、ジャーナリズムと「企業の論理」は相反するものであることは明らかだ。ジャーナリズム機能を強化するためには記者、制作者たちが商業主義に傾きやすい「企業の論理」を捨て、それぞれが企業から自立して、市民的な公共性を不可欠とする「ジャーナリズムの論理」に徹することが必要である。

 放送番組の制作構造の問題点は、番組制作の外注化と男性偏重の制作体制に集約される。 
 放送局における番組制作の外部プロダクションへの外注化と派遣労働者の利用は、1970年代に入って顕著になり、現在では自社制作番組といえども放送局直傭の労働者だけで番組制作を行うケースは皆無に等しい。ネットワーク番組の制作本数が多いキー局では、とりわけ外部プロダクションや派遣労働者に依存する割合が高くなっている。 
 このような番組制作体制は、放送局を頂点にプロダクションと派遣会社あるいはフリーの労働者が複雑にかかわりあう三層構造を作り出しており、そのことが制作現場の労働条件や制作条件に深刻な影を落としている。 
 また、放送番組の制作現場がいっかんして“男性中心の職場”であるために、依然として番組の制作・決定に女性が男性と同等に参画できない雇用環境にあることも大きな問題である。 
 男女雇用機会均等法が施行されて以来(86年)、放送局における女性の雇用比率はそれ以前よりは上昇しているものの、93年におこなわれた「ジェンダーの視点から見たメディア組織」に関する調査をみても、放送局の全職員(社員)に占める女性の比率はNHKで7・1%、地上波民放でも17・5%にすぎない。また、方針などの決定権をもつ部長クラス以上の役職者に占める女性の比率はさらに厳しく、わずか1%にとどまっている。 
 そうした現状の問題点としては、次の点をあげることができる。 

<放送局サイドの問題点>
�なぜ外部制作なのか
 番組制作における外部の労働力の導入やプロダクションの利用は、制作費の抑制とプロダクションや派遣労働者を景気の調整弁として利用する経営姿勢から始まった。そのために、放送局とプロダクションとの間で適正な番組制作コストと利潤が得られる契約が結ばれなかったり、番組著作に対する権利をプロダクションに認めないなど、いつまでたってもプロダクションが自立していけないようなひどい条件のもとで番組制作にあたらせる結果を生んできた。また、放送局の直傭労働者と制作プロダクションのスタッフや派遣労働者との間に、賃金や待遇面で大きな格差を生み出している。このように、放送局とプロダクションの間では、番組制作のリソース(資源)についての分配の公平化が全く図られていない。
�崩壊が進む職能の形成と継承
 放送局直傭労働者の“少数精鋭主義”は、ますます外部のプロダクションや派遣労働者に番組制作の実質的な部分を依存することになり、局の放送労働者は専門職としての能力よりはゼネラルスタッフとしての能力が求められるようになっている。ディレクターの経験が十分でないままにプロデューサーを担当するなど管理能力が重視され、職能形成の基盤が崩壊の危機にさらされるとともに、その継承も図れなくなっている。
�ゆとりの無い制作体制
 メディア総研が97年3月に実施した番組制作現場へのアンケート調査では、放送局社員スタッフの不満は「人手不足」が最も高く(58%)また、仕事で最も不安に思っていることは「ゆとりがない」ことだった(42%)。これらの結果から、制作現場を担う放送局社員が日々の仕事に休みなく追いまくられ、長時間労働のためにものを創るゆとりを失っている現状が見てとれる。ゆとりのない制作体制は、質の高い番組をつくる条件を失うと同時に、スタッフの健康を脅かしてもいる。
 こうしたゆとりのない制作体制はまた、仕事と家庭を両立させた人間らしい生活と感性を制作者から奪い、女性を制作現場からしめ出す要因にもなっている(労働条件がより厳しいプロダクションや派遣労働者にとっては、この問題はいっそう深刻になっている)。

<プロダクションサイドの問題点>
�著作権は誰の手に
 番組制作会社の表記のあり方や番組著作権の確保、放送権譲渡など番組権利関係の処理と管理が放送局優位のもとにおかれているために、プロダクションの自立化が容易でない。
�制作費のダンピング競争
 番組コストの削減を主な目的に始まった放送局による番組制作の外注化は、プロダクション間の激しいダンピング競争を引き起こし、そのことが劣悪な制作条件を現場に強いることになり、ひいてはプロダクションの自立化をますます困難なものにしている。
�困難な人材の育成
 プロダクションや派遣労働者の労働条件の悪さは、質の高い労働力の確保を困難にしている。労働者の定着率は低く、そのために人材育成を系統的に図る見通しが立たず、そのことが番組の内容面での問題を引き起こす要因にもなっている。放送局が求める視聴率一辺倒の番組づくりのなかで、放送倫理も不十分なままにセンセーショナルな映像の追求がなされるために、取材対象者の人権侵害を誘引する事態も招いている。
�もっと制作費と給与を
 メディア総研の番組制作現場へのアンケート調査によると、プロダクションの制作関係者の仕事への満足感は、放送局の制作関係者に比べて一〇ポイントも低い。また仕事への不満では「制作費の不足」(63%)をトップに挙げ、二番目に「給与の低さ」(60%)を指摘している。仕事への不安では「ゆとりがない」(32%)ことが最も高く、次いで「仕事がなくなる」(30%)ことに集まっている。番組の実質的な担い手であるプロダクションの制作現場が、番組制作費の不足や給与の低さに悩み、仕事がなくなることへの不安を抱えながら仕事をしている現状では、質の高い番組を望むことは不可能であろう。

<派遣・フリーの問題点>
�派遣に年齢の壁
 97年3月現在、⑳全国放送関連派遣事業協会に登録されている派遣会社数は一五〇社である。同協会が95年に実施した「放送関係派遣元事業所実態調査報告」によると、従業員の中高年齢化がすすむなかで、加齢や熟練に応じた派遣料の請求が不可能であること、放送局の指揮・命令者が若返り中高年の派遣労働者を派遣しにくくなっていること、などが問題として指摘されている。
�給与への不満と仕事がなくなる不安
 メディア総研の番組制作現場へのアンケート調査では、派遣・フリーの仕事への最大の不満は「給与が低い」ことで、全体の70%近くがそのことを訴えている。また、「仕事・待遇で差別がある」という回答も40%あり、普段いっしょに仕事をしている放送局の労働者との間に強い被差別感を抱いていることがわかる。「仕事がなくなる」ことへの不安も60%強と高く、プロダクションの労働者以上に不安定な生活となっている。

<視聴率至上主義>
 テレビ視聴率調査は、科学的統計的な手法によって得られる視聴者の番組接触の実態を把握するために、1962年12月にビデオリサーチ社が関東地区でビデオ・メーターを用いたオフライン方式で開始したのが最初である。以来、今日ではオンライン方式による機械式の世帯視聴率調査へと発展し、調査対象地域や標本数を拡充しながら「より早く」「より正確な」なデータを、全日の全番組にわたって恒常的に広告主や放送媒体に提供するまでになっている。また、97年には機械式による個人視聴率調査(当面は関東地区のみ)も新たに始まった。
 テレビ視聴率調査は当初、「広告媒体としての量的評価指数を求める業界ニーズに応えるデータとしてスタートした」(『視聴率30年』ビデオリサーチ刊)。しかし、客観的な指数であるはずの視聴率は、民放テレビが広告媒体としての機能を高めるにつれて高視聴率の獲得=営業成績の向上という図式にあおられ、番組編成が視聴率至上主義へと向かっていった。
 その結果、視聴率はテレビ番組の画一化や「低俗化」を促す要因にあげられ、それを意識したセンセーショナルな制作姿勢が、プライバシーや人権侵害を引き起こす元凶として指摘されたりもしている。また、単に個々の番組への評価だけではなく、放送ジャーナリズムの不在や放送文化あるいは放送の公共性を喪失する問題としても提起されるようになっている。
 97年に複数の民放局で明らかになった契約CMの未放送(間引き)問題も、広告がメディア活動を行なううえでの重要な経営基盤であることを忘れた結果であり、放送の信頼性や公共性を大きく失墜する結果を招くことになった。この問題も地上波民放の視聴率至上主義の経営姿勢がもたらした一側面である。
 80年代以降、民放テレビはスポット広告重視の営業政策を採用してきたが、いまやスポットは民放テレビの売り上げの五割を超えるまでにその比重を高めている。スポットCMの収入を上げるためには、CMを挿入する前後の番組視聴率を高く保持することで広告効果を上げなければならない。スポットセールスは、視聴率の数字だけがセールスの根拠になるからである。つまり、視聴率が上がれば、スポットCMの放送単価が高くなり売り上げは上昇する。このスポットセールスのあり方が視聴率競争の激化を招き、視聴率至上主義に向かう原因となっている。
 視聴率一辺倒のセールスは、番組(タイム)セールスにもおよんでおり、いまや番組セールスすら制作費と電波料を区分して販売する方式は崩れ去り、スポットセールスに相当するような方式を採用することで、視聴率を営業構造に直結する方式を放送局自らが作り出している。
 しかし、このような視聴率とセールスのあり方を問う声は、これまで放送局の内部からはあまり聞こえてこなかった。むしろ、視聴率三冠王、四冠王を達成することが堂々と目標として掲げられ、ネットワーク間競争や企業間競争にしのぎを削る実態がある。
 さらに、97年4月から導入された機械式個人視聴率調査は、視聴動向が個人レベルで把握できることから、これまで以上に視聴者ニーズにあった編成上のきめ細かい対応ができる反面、商品のターゲットとなる特定の年代層の視聴率が評価されるために、広告主のマーケット・セグメンテーション戦略に直結した番組だけが編成される恐れが強まることが予想されている。そのことは機械式個人視聴率調査が広告主の一方的な意向に沿う形で導入された経緯を見ても明らかである。それだけに、個人視聴率問題は、民放メディアを今以上に広告媒体、マーケティング・メディアにしてしまう危険性をはらんでいると言える。
 今後、多チャンネル化が進むなかで、地上波テレビだけでなく、地上波テレビとデジタルCSテレビやBSテレビを巻き込んだ視聴者獲得競争がいっそう激化することが予想される。そのことを予見して、すでに番組の質の低下を懸念する声が再び強まっており、郵政省「多チャンネル懇」の報告書が示した新たな番組規制の動きは、行政の先手を打つ対応として注目しておく必要がある。
 これまでの放送の歴史をみても、政府が番組規制に乗り出す際には、常に視聴率がセットで問題にされてきた。テレビ朝日椿元報道局長発言やTBSオウム真理教ビデオ問題をめぐる国会での論議でも、やはり視聴率問題との関連が指摘されている。それだけに、視聴率至上主義の考え方は権力の介入を招く危険をもっており、放送の自由を自らの手で狭めてしまう危険性があることを自覚し、その克服に努力する必要がある。

�ポルノチャンネルの誕生と放送法 
 デジタル多チャンネル化が急速に進むなかで、放送法が規定する「放送」には括れない形態の事業が登場してきた。1997年2月、デジタル衛星放送のパーフェクTVに成人向け番組を主に編成する三つのチャンネルが認定され、6月1日から事業を開始したことである。この三つのチャンネルの番組内容は、どのような理屈を並べても「善良な風俗を害しないこと」とした放送法3条の2の「放送番組の編集準則」に適合するものではない。 
 このパーフェクTVは、ポルノチャンネルを含む九三のテレビチャンネルと一〇五のラジオチャンネルをもつデジタル衛星多チャンネル放送である(97年10月1日現在)。それぞれのチャンネルは専門放送であり、地上波放送のような総合編成で放送番組を構成することはしていない。まさに「空を飛ぶレンタルビデオショップ」である。このような専門チャンネルは今後、ディレクTVやJスカイBなど、四〇〇に近いチャンネルが予定されている。さらにはインターネットを通じての「放送」も実現しているのが現状だ。 

�崩れる「放送」のキーワード
 現行の放送法および電波法では、「放送」は「公衆によって直接受信されることを目的とする無線通信の送信をいう」と定義されている。また、72年に制定された有線テレビジョン放送法では、「有線テレビジョン放送」とは「公衆によって直接受信されることを目的とする有線電気通信の送信である」と規定されている。
 このように「公衆」「直接受信」そして「無線通信(有線電気通信)の送信」が、「放送」を規定するキーワードとなっている。
 ところが、放送・通信技術の発展に伴い、「放送の公然性」「通信の限定性・秘匿性」といった放送と通信の境界が不鮮明になり、さらには放送番組の伝送方法の多様化によって、現在の放送環境は、放送法などが制定された50年当時の放送状況とは大きく様相を変えている。放送と通信の融合、多チャンネル化さらにはデジタル放送の実用化など、放送をとりまく技術面での進捗状況はめまぐるしい。

�一律に規律することは不可能
 放送法などの定義のキーワードとなっている「公衆」「直接受信」そして「無線通信(有線電気通信)の送信」をもとに、さまざまな放送関連事業、またはその事業が送信する番組を、一律に規律する法体系は、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図るとした「放送法」の法理念や法の目的に合致し続けるのであろうか。ケーブルテレビ・衛星放送・地上波放送の三つのメディアが「放送」事業として発展してきている。それらの連携と競合の関係が続くなかで、通信と放送の区分の有効性はあるのか。
 不特定多数の「公衆」を相手に放送活動を行っている現在の地上波放送、特定の契約者・加入者に対してだけ番組を伝えているケーブルテレビやWOWOWあるいはCS放送の存在は、放送法等に規定された「公衆」という概念でひとくくりにできない状況にあることを示している。
 こうした状況下で、放送番組の編集準則などの規律が一律に適用されていいのだろうか。またケーブルテレビによる再送信などの連携が複雑に進む中で、放送法や有線テレビジョン放送法に規定される番組編集準則はどのような機能をもつのかの検討を深めなければならないものの、もはや一律適用は困難なほど実態は進んでいると見るべきである。
 技術面のすさまじい発展、とりわけ放送行政当局の予測を超える変遷にもかかわらず、すべての番組内容に対する規制は、当局が死守しようとしている領域である。このような行政当局の思惑だけで放送制度が構築されてはならない。

�視聴者・市民の利益が最優先
 放送環境が激変するなかにあって、何よりも大事なことは、視聴者・市民の利益である。
 視聴者の立場を考えれば、その利益を優先して放送関係の規律を見直していく必要がある。視聴者の利益の第一は、多種多様な組織から多様性のある番組が放送されることであり、第二には少数意見が無視されることなく伝えられる状況を作っていくことである。
 デジタル化による多チャンネル放送が広く普及する過程にあっても、現行の地上波放送を、加入契約者向けの放送や有料放送などとハッキリ区別して、放送法規を体系化することが求められている。というのも、多くの視聴者つまりは「公衆」に向けられた放送活動である現行の地上波放送が、契約を要する有料放送と同一の法体系の中で規制を受けるとすれば、きわめて不合理な事態を招くからである。
 ここでは一つだけ例を挙げると、パーフェクTVの成人向けチャンネルに導入されている「ペアレンタルロック」のようなシステムが地上波放送にも導入されるならば、それは放送法が放送事業者に期待する「放送の自由」と放送事業者の自立性・自律性を根本から崩すことになるということである。さらに同法3条の「放送番組編集の自由」に規定された「放送番組は、法律の定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」に反して、法で定めのない「ペアレンタルロック」ないしはアメリカなどで導入が決まった「Vチップ」を地上波放送等にも導入せざるを得なくなるかもしれない。
 
�ハードとソフトの分離が問いかけるもの
 デジタル衛星放送における「認定」というシステムは、89年の放送法改正で導入された委託放送事業者に対するもので、施設を持たず放送番組の編成・編集だけを行う「ソフト事業者」に郵政大臣が免許を与えるということにほかならない。これはそれまでのハード・ソフト一体の放送局免許とは大きく異なる。その認定の手続きに関しても、「認定をすることが放送の普及及び健全な発達のために適切であること」(放送法52条の13第4項)などの認定基準の各項目に適合するものとして認定を受けるものとなっており、これは事実上、事業免許制である。
 現行の放送制度では放送事業者の免許は「施設免許」とされてきたが、89年の法改正により、事実上の「事業免許制」が導入されたとみるべきであろう。CS放送においてハードとソフトの分離がおこなわれ、委託放送事業者と受託放送事業者が誕生した時点で、すでに「施設免許制」の原則は崩れたといえる。
 このように放送制度の根幹に大きな変化が生まれているにもかかわらず、こうした事態は現行制度の矛盾とされたまま放置されている。現行制度の矛盾を解消するためにも、多チャンネル化が進む中で、いまこそ放送概念の再検討をしなければならないと考えられる。




 以上のような状況認識から放送の将来を考えると、「放送」の概念を改めて定義することが緊要である。現状のように、ポルノチャンネルまで含めた専門化されたチャンネルを放送に括るような、放送概念を広くとることは、言論報道機関として存在する放送事業者に求められる公共的機能との間に大きな食い違いを生じさせる恐れがある。
 また、技術革新により放送類似サービスの範囲が拡大するなかでは、「放送」を限定することによって、改めて放送の公共的役割を明確にし、放送の自由をさらに発展させていくことが社会にとっても重要であるからだ。

 そこで、現在ひろく放送とされているものを事業の内容によって「放送」と「非放送」に分けることを提案する。「放送」には放送法を適用し、「非放送」には放送法を適用せず、事業内容に応じた自主的な規制システムの設置を求めるべきである。
 多チャンネル懇は「放送の多チャンネル化は、番組の種類、内容の幅が広がる中で、良質の番組の増加とともに、質の低い番組も増加させるおそれがある」として、放送事業者以外の者による公的な苦情対応機関の設置を求めたが、こうした放送への内容規制に歯止めをかけるためにも、「放送」と「非放送」を区別することによって「放送」の公共的役割とその社会的責任を改めて鮮明にする必要がある。

�「編集責任」をもつものが放送
 「放送」には、すべての番組を“編集して放送する責任”があり、そのことによって「放送」の社会的責任を明らかにする。
 「放送」は、以下のものとする。
  �総合放送
  �公共の利益のために活動する市民組織の放送
  �公共情報サービス放送(ニュース専門チャンネル・株式情報チャンネルなど)  このうち、�総合放送は、(イ)ニュース、解説・論評をおこなうとともに、視聴者の多様なニ一ズに応える教養、娯楽番組を放送する、(ロ)公共情報を提供する、(ハ)フォーラム機能を生かした番組を放送することに努めなければならない。
 「放送」には、その公共的役割を果たすために次のような優遇措置がとられる必要がある。
  �受信料による放送(NHK)と、広告放送、無料放送をおこなうことができる。
  �電波利用料、電波利用税等の減免措置
  �回線使用料の減免措置
  �専門チャンネルが独占した映像・音声であっても、「放送」が報道目的で使う場合は無料で自由に使用できる措置
  �持ち株の制限など放送局の自立を必要とする措置、など
�専門チャンネルは「非放送」に
 上記のような「放送」に該当しない専門チャンネルは「非放送」とし、すべて有料対価的サービス(有料放送)とする。したがってCSデジタル放送に登場した専門チャンネルの多くが「非放送」に括られ、ニュース専門チャンネルなどを除いては「放送」に適用される優遇措置等は受けられない。
 「放送」に括られるか「非放送」に括られるチャンネルかの判断は事業の内容によって決まるが、とりあえずは当該事業者と行政機関との協議によって決定されるものとする。ただし、その協議の詳細については公表されるものとする。

�不可欠な独立行政機関
 「事業内容にもとづく免許」を基本とした新しい放送秩序の確立にあたっては、放送行政の根本的な改革が不可欠となる。放送・通信行政を郵政省から切り離し、後述の提言に述べるように、新たに独立行政委員会を創設し、そこに権限を移す改革があわせておこなわれなければ、放送の自由も放送の公共的役割もたちどころに窒息する。
 独立行政委員会をどこの管轄下に置くのかもあわせて検討しなければならない。憲法65条は「行政権は、内閣に属する」としているが、これは、例外的に内閣以外の国家機関に行政権の一部の行使を禁ずるものでないことは判例にもあり、新しく組織される独立行政機関は人事・予算・執行の面で高度な独立性を保証された組織でなければならないし、さらにその行政は透明でかつ公開を前提としたものでなければならない







 私たちの市民的な生活や自治に必要なさまざまな情報や言論は、いまやほとんどが放送をはじめとする高度に組織化された巨大なマスメディアを通じて提供されている。つまり、マスメディアは情報・言論の送り手の地位をほぼ独占しながら、民主主義社会のなかで重要不可欠な「公共的」役割を演じており、またそれが期待されてもいるのである。
 しかし、その一方で、この同じマスメディアが名誉やプライバシーなど市民の権利の侵害者としてたち現れるとともに、利潤第一主義や所有の集中などにより少数意見を反映しないことを含め、言論の多様性を損ねる傾向を伴いがちなことも、また事実である。こうした点を考えると、メディアの公共的役割を最大限に確保しながら、社会的権力としての弊害をコントロールすることのできる、個人の表現活動とは異なるメディアの在り方を考えなければならない。
 そこで、情報・言論の受け手である視聴者・市民の立場からメディアの自由を基礎づけ、構成する視点が重要となる。放送の自由については、アメリカで有力な自由観とヨーロッパで支配的な自由観とがある。
 前者の放送の自由とは、合衆国憲法修正第1条の下では、政府からの規制・介入を受けない無制約の国家からの自由が被免許者である放送事業者にあるという考え方であり、放送事業者の制約なき自由の視点である。こうした自由観に立つと、フェアネス・ドクトリンなどの公平原則にもとづく政府による番組規制は、放送の自由を侵害し許容されないことになる。
 これに対して後者は、放送の自由を言論の自由という、より基本的な自由に奉仕する制度的自由と捉え、情報の行き渡った民主主義や多様な見解による生き生きとした議論など、自由な言論という目標を促進する限りで保障される自由だとみなす。したがってここでは、放送の自由を国家からの自由としてのみ捉えるのは不十分であり、逆に国家や商業的グループなどによる放送支配から自由な言論を保護し、視聴者が出来る限り多様な情報や見解、そして少数者の意見などにアクセスできる利益を保障するために、番組規制などの立法措置も必要だとしている。ここで強調されているのは、放送の自由の手段的、派生的性格であり、視聴者・市民の権利の視点である。こうした自由観に立つと、公平原則などの規制は放送の自由の制約要素ではなく、その促進的な措置として積極的に求められることになる。また、こうした自由な言論の促進という観点から、放送事業者や編集者などのメディアの自由がある程度制限される一方で、逆に他のメディアには認められない特別な権利が付与されることもありうる。
 先に紹介したように、メディアの公共的役割や送り手としての独占的地位、他方での多様性の喪失や市民の疎外状況の進行を考えると、放送の自由を視聴者・市民の視点から組み立てていこうとするアプローチは、基本的に説得力があり、妥当だと思われるが、放送の自由をこうした観点だけから一面的に構成することには問題も残るように思われる。というのも、視聴者の利益とは相対的に区別される放送する側の固有の自由もあると考えられるからである。放送の自由は、視聴者の視点からの基礎づけをベースにしながらも、複合的でより豊かなものとして構成すべきであると思われる。
 こうした放送の自由の複合的性格を考えると、視聴者の利益を第一義とし、それに最大限の配慮を払いながら、編集の自由など放送する側のメディアの自由のメリットも可能な限り生かしていけるような微妙なバランスを、規制の内容・手法・程度などに即して、ていねいに探って行くことが必要である。そのためには倫理規制の強化とともに、放送メディアは次のような課題に取り組むことが必要である。
�テレビ朝日・椿発言問題やTBSオウム真理教ビデオ問題などで、その脆弱性が露呈した放送の自由を確立することが必要である。この点では、
法的根拠もあいまいで、絶大な規制的効果を実際にはもつ「厳重注意」の行政指導措置の発動を許してはならないし、また政治的乱用や不当な権力介入の危険を本質的に秘めている個別の放送内容にかかわる放送関係者の証人喚問や参考人招致も認めるべきではない。
 より根本的には、先の行革会議でも提示されたように、郵政省が放送行政を一手に支配する体制を打破し、欧米で普遍的な独立行政機関の設置が目指されるべきであろう。
�知る権利にもとづく情報公開制度の実現を、行政府だけではなく国会や裁判所も含めて目指すとともに、公開の実質化・徹底化を図るため、証人喚問のテレビ映像中継の復活や国会テレビの開設、裁判の中継化をはじめとしてメディアの取材・報道の自由を拡充することを実現すべきである。
�取材の自由と報道の独立をより強固にするために、取材源秘匿・証言拒絶などメディアの「特権」を確立すること。この点については、民事訴訟法改正に際し、新聞協会の消極的意向を受けて、その法制化が見送られたのは遺憾というほかない。また、記者クラブ改革の議論においても、こうしたメディアの特権論の視点を欠くべきではなかろう。
�政治家の記者会見拒否などの事態に有効に対処するため、伝統的な「取材の自由」を超えて、政治家などへのある種の「取材の義務づけ」を伴ったより積極的な「取材の権利」の法理を探求・構築する。




 メディアの巨大化・集中化は、市民の権利侵害の規模や影響を拡大させるとともに、言論の多様性を喪失させ、情報・言論の受け手としての市民の受動的地位を固定化させ、それを進行させてもいる。そうした事情を考えると、市民の権利のいっそうの保護・救済の手段を考えるとともに、言論・情報の多様性の確保のための有効な手立てとして、メディアへの市民のアクセスを拡充・強化することが重要な課題となってくる。
 具体的には、公平原則なども維持しながら、より速くかつ効果的に市民のメディアへの苦情を救済する第三者的な苦情申立制度を強化するとともに、反論権の制度化を図るなどして市民によるメディアへのアクセスのルートを拡充する課題が探求されなければならない。
 この点を「訂正放送」制度に即して検討すると、以下のような改革の方向をめざす必要がある。この制度については、95年、訂正放送の請求期間や番組保存期間の大幅延長などの改正がなされたものの、より包括的で有効な人権救済とアクセスの確保という点では、なお多くの課題を抱えており、抜本的な制度改革が求められる。
 問題点の第一は、この制度はイギリスの放送苦情委員会などと異なり、救済対象が一定の名誉毀損などに狭く限定されていて、プライバシー侵害や不公正な報道など現在、問題になっている事柄を広くカバーするものになっていないという重大な制度的限界を抱えていることである。特に、プライバシー保護など、こうした広がりをもった権利救済の方法を真剣に考えなければ、その役割を有効に担うことは難しいのではないだろうか。
 第二に、現行の「訂正」、「取り消し」という救済方法も問題となる。この点では、外国で試みられているような救済機関の判定内容の放送を義務づけることや反論放送の可能性が考えられる必要がある。後者は、典型的にはテレビなどによって一方的に攻撃された人や誤った事実を報道された人に対して、無料でその反論や訂正の放送を求める権利を保障するという、ヨーロッパなどの一定の国々で導入されている制度である。これは、編集の自由など言論の自由との関係で問題もあるが、人格的権利の救済の拡充をもたらすだけではなく、言論の応酬によって言論市場の豊富化や活性化を確保しうる点などを考えると、積極的に検討が求められるシステムである。
 第三に、救済の手続き・機関にかかわる問題である。この機関は政府だけでなく、放送局からも独立し、固有の権限も持つ、放送界全体をカバーする真の意味での第三者的救済機関を考えるべきであろう。
 ただし、こうした改革を構想する際には、先にも触れたように、報道・放送の自由との微妙なかかわりが十分考慮されなければならない。この点、イギリスの経験でも報道・表現の自由の過度の抑制や不当な侵害、萎縮的効果などの危険が指摘されている。これらを考えると、そうした外国の試みや経験を参考にしながら、たとえば、�かつてアメリカの全国ニュース評議会で試みられたようなプレス・カウンシル型の自主規制的な形での第三者機関設置の可能性を追求する、�聴聞手続きをはじめ、放送事業者側の言い分も十分主張しうる公正な審理手続きを保障する、�放送停止や罰則金の賦課といったメディアにとって抑圧的な制裁・救済方法は避ける、など報道・放送の自由に十分に慎重な配慮を加えた制度のあり方を考えなければならない。
 こうした放送の権利救済・苦情対応の問題をめぐっては、多チャンネル懇の最終報告(96年12月)で苦情対応機関の設置が提案され、これを受ける形でNHKと民放連が共同で設置した「放送と人権等権利に関する委員会(機構)」が97年6月から活動を開始するに至り、大きな進展を見せた。この委員会は、放送界があげて権利救済への対処を行おうとする点で日本の放送史上画期的な出来事と言えるが、その仕組みは放送の自由確保の点でも、市民の権利保護の点でも、なお多くの問題を含んでいる。今後、放送の自由を守りながら迅速・有効に権利救済を担える機関にしていくためには、メディア総研が97年2月に発表した『緊急提言』(放送による権利侵害救済委員会設置についての緊急提言、資料編参照)が構想するような、放送界と視聴者・市民の共同機関として改革し、再構築していくこととが求められる。




 郵政省の弊害を排し、政府から独立した市民のための「独立行政委員会」組織を構築すべきである。
 放送が豊かな市民社会を構築し、そのための表現の自由を確保するためには、免許をはじめとする放送行政もそれに適合した形態が必要となる。“裸の行政権力”である郵政省が内容規制や免許付与などの広範な放送行政権限を行使するという、世界でも稀な日本の異様な事態を速やかに改め、欧米のように政府から独立を保障された独立行政委員会、もしくは多様な社会的・政治的勢力から構成される第三者的な放送行政機関の設置が目指されるべきである。その際に、郵政省による事実上の支配を排除することが重要である。
 97年9月3日の政府行政改革会議中間報告は、郵政省を解体し、総務省のもとに独立行政委員会の形で「通信放送委員会」を設置して、免許をはじめとする放送行政を担わせるプランを発表した。突如提示されたこの案は、政府首脳と一部識者のみで構成される行革会議の性格の問題や、構想の中身が全く見えないなど多くの問題点が残るが、独立行政委員会の設置自体は正しい方向である。問題は、委員会の人事や権限、予算などの点で、政府からの独立性や政治的中立性を確保し、徹底した委員会の透明化を図ることで放送の自由を守り、公正な放送行政を担いうる独立行政委員会の仕組みをどう構築するかである。
 単に郵政省の焼き直しでは意味がない。従来の放送行政の弊害は、産業振興の名のもとに繰り返された通産省との不毛な縄張り争い、ニューメディアブームから現在に至る失政の数々、放送番組に対する過剰な行政介入など、枚挙にいとまがない。
 放送に関する独立行政委員会に、こうした官僚機構の弊害を持ち込まないためには、少なくとも、現時点から次のような是正策が行われるべきである。

�責任の不透明な“懇談会行政”の是正
 行政手法として“懇談会”が頻繁に使われている。官僚は、有識者の意見を行政に反映させる手段として有効である、と主張するが、現実には官僚の作文を追認する機能しかない、といっても過言ではない。実際、およそ二時間程度の会議時間で二〇~三〇人の委員が意見を述べる時間は三〇分程度、それ以外の時間は官僚の説明である。これでは十分な論議など望むべくもない。その委員も特定の学者や業界の利益代表が大半を占める。懇談会の結論を官僚は「報告書をいただいた」と表現し、自らが策定したものではないことを強調するが、これは、懇談会の報告書が行政施策に反映された場合の責任の所在を曖昧にするために他ならない。
 こうした弊害を是正するためには、視聴者・市民の参加を重視するとともに選考過程を透明にし、懇談会の全過程を通して徹底した公開が図られなければならない。
�天下り、天上がりの根絶
 天下りの弊害はさまざまな場で指摘されている。特に言論報道機関である放送事業においては、天下りはまさに「百害あって一利なし」であり、その根絶は重要である。また、東京キー局で行われてきた郵政省への天上がりも同様に問題であり、速やかに全局が中止すべきである。

�情報公開の徹底
 官僚機構は情報を一手に握ることによって利権や裁量を生み出してきた。情報公開法の制定が進むなか、懇談会での議事録および資料も含めた行政情報の公開は不可欠であり、さらに官僚以外には理解不能な制度をわかりやすくすることも、重要である。




�番組制作プロダクションはこれまで地上波放送にだけ依拠して存立してきたが、多メディア多チャンネル化が進展するなかで急激なチャンネルの多様化が進み、それに伴って番組ソフトの需要も急増することが予想される。その結果、プロダクションは地上波放送以外の制作分野に進出する機会を持つことになり、それを機会に、これまでの地上波放送局との番組契約関係の改善を求める声も強まるであろう。
 こうした事態を見据え、発注元である放送局には、制作プロダクション、派遣会社との間で、正当な制作コストと利潤を保障した経済合理性にもとづく近代的な契約関係の確立を目指すことが強く求められる。またそのことによって、プロダクションの自立化と派遣労働者・フリーの労働条件の改善を促し、あわせて番組の質の向上や放送ジャーナリズムの前進を図るための具体的なシステムを構築する必要がある。
 さらに、プロダクション制作の番組表記の改善、放送権譲渡の期間の短縮、譲渡権料のアップ、著作権の制作プロダクションへの帰属など、番組制作に関わる権利処理の平等性の確立についても早急に見直しが図られねばならない。

�番組制作プロダクションに働く労働者や派遣労働者の労働条件は早急に、大幅に改善される必要があり、番組制作に関わるすべての労働者は、その所属組織の違いにかかわらず職能や経験年数などの合理的な評価にもとづいて平等に扱われなければならない。

�地上波民放経営者への各種アンケートを見ると、「将来、番組ソフトの制作はすべて社外で行われるようになり、放送局は放送を送り出す機能を果たすだけになる」という見通しには否定的な回答がほとんどである。もし、自社制作番組の強化を図るのであれば、放送局は現状の番組制作構造を早急に改善し、人材確保につとめるとともに、「制作者の権利」の項で述べるような方策を具体化する必要がある。




 放送番組の制作および報道に携わる制作者(プロデューサー、ディレクター、記者、ライター、アナウンサー、カメラ、技術・美術の担当責任者など広義の番組制作者をいう)には、次のような権利が保障されなければならない。
 1 言論・表現活動に直接的に携わる放送関係者には、憲法上の規定に反するテーマ、あるいは自らの思想・信条・宗教に反する仕事を強要されない権利があり、それを拒否したことを理由に、いかなる不利益待遇も受けない。
 2 言論・表現活動に直接的に携わる放送関係者には、自らが関与する放送番組が議題となる社内外の会議に出席し発言する権利があり、そのことによっていかなる不利益待遇も受けない。
 3 言論・表現活動に直接的に携わる放送関係者が、番組の企画・制作過程、放送結果などについて放送局および制作プロダクションの措置に異論がある場合、それについての自分の意見を内外に公表する権利があり、そのことを理由にいかなる不利益待遇も受けない。
 4 言論・表現活動に直接的に携わる放送関係者は、自らが関与する番組または取材担務から正当な理由なく排除されない。また、本人の同意なしに異職種への配置転換あるいは契約解除を受けない。

 このような「制作者の権利」が確立されるためには、つぎのようなシステムを具体化し制度化する必要がある。
�専門職として採用し育成するシステムの確立 日本の放送局では、従来から「アナウンサー」と「技術職」にかぎっては、その専門性を明確にして採用する方式がとられているが、その他の職種については「一般職」として一括採用するのが通例となってきた。このため、入社後の「一般職」は、自分が目指した職種に就けないだけでなく、制作、報道、編成、営業、総務といった職場を目まぐるしく移動することも少なくない。とりわけ民放局では、番組制作の外注化が本格化するにつれてその傾向が強くなり、スペシャリストの育成よりは、もっぱらゼネラリストの育成に力が注がれるようなっている。
 しかし、放送をめぐる相次ぐ不祥事がきびしく警告しているように、スペシャリスト育成の軽視は、培われてきた技能の継承を絶ち、制作者の職能的能力を衰退させ、その誇りを奪い、ついにはプロとしての判断を失って放送への視聴者・市民の信頼を根底から揺るがすことにもなっている。このような制作現場の危機を打開して行くためには、何よりもまず、アナウンサーや技術職と同様に、スペシャリストとしての「制作者」の雇用に踏み切るとともに、記者、演出、カメラ、編集等の教育・訓練プログラムを策定し、継続的に実施していくシステムを、大学や研究機関等の協力も得て、放送業界全体でつくりあげる必要がある。
 また、制作者の雇用にあたっては女性の雇用の拡大につとめ、男女の比率がほぼ半々になるような職場環境をつくる努力が必要である。仕事と家庭を両立させて人間らしく生きることのできる雇用環境こそが制作者の立脚点であり、両性による複眼の視点なしには、多様な放送文化をつくることも不可能だからである。同様の理由で、在日外国人の雇用の拡大にも意識的にとりくむとともに、性および国籍による差別を認めない不断の環境づくりが強く求められている。
�専門職としての待遇の保障
 制作者の専門性を軽くみる放送事業者の姿勢は、制作者の“使い棄て”に拍車をかけ、ベテランの制作者が現場で活躍する余地をますます狭いものにしている。たとえば、テレビ報道の第一線で活躍する放送記者の大半は20代、30代で占められており、40代のうちにはそのほとんどが現場を離れていく。これは、50代になっても記者生活をつづけることの多い新聞記者とは際立った違いで、専門分野をもつ記者が放送界に育ちにくい原因の一つにもなっている。制作プロダクションやフリーで働く制作者の使い棄てはさらに苛酷で、劣悪な制作条件に絶望してこの業界を去っていく若者が後を絶たない。
 このような事態を改善していくためには、職能的能力を殺して管理労働に就かないかぎり賃金や地位の向上が望めない現在の職位制度を改め、制作者として現場で番組をつくりつづけることが正当に評価される制度の導入が図られなければならない。また、制作費の「分配の公平」が図られ、放送局の職員であるか否かにかかわらず、制作者の待遇ができるかぎり平等になるようにする努力がつづけられなければならない。そのためには、企業の枠を越えた制作者の職能別組織の結成が不可欠になってくる。

�番組制作上の苦情やトラブルを処理する手続きの制度化
 「制作者の権利」を実効あるものとして制作現場に定着させていくためには、番組の企画・制作から放送に至るまでの過程で生じた問題を、制作者グループの代表と放送局の代表とで公正に処理するための手続きが制度化されなければならない。苦情や救済を申し立てる制作者は、放送局の職員であるとはかぎらない。したがって、この手続きに参加する制作者グループの代表は、放送局の内外で仕事をする広範な「制作者」を代表するものでなければならない。制作者グループがそのような代表を送り出すためにも、企業の枠を越えた職能別組織の誕生が求められる。
 また、制作者が自らの責任において言論・表現の自由を享受するためには、同時に放送局が視聴者・市民に対して、「反論機会の提供に関するルール」を明示することが求められる。制作者の権利と責任は、反論権を保障することでいっそう明確になり、言論市場の活性化を促すことにもなるからである。




�放送局の放送活動に対する評価は、個別の番組視聴率の総和だけでなされるものではない。視聴率による評価のほかに、放送の公共性や放送の自由の実現への努力、放送のジャーナリズム性および地域性を発揮する独自の番組活動や事業活動への評価など、さまざまな放送活動の総和が問われているといえる。
 多チャンネル状況のもとでも、放送が担うべき公共的役割は変わらない。それだけに、番組活動の基本となるような価値規範の確立が強く求められる。

�民放連の個人視聴率特別委員会が96年8月にまとめた「テレビ視聴率の意味」には、「視聴率はテレビにとっては重要な価値基準の一つではありますが、視聴率が価値基準のすべてなのではありません」との見解が述べられている。今後とも、視聴率はテレビ放送の重要な指標であり続けることは間違いないが、現状の視聴率調査には限界があることも認識しておかねばならない。民放連、広告主協会、広告業協会の三者で構成する「個人視聴率調査懇談会」の答申(96年6月)は、その点を「視聴率はサンプル数や基本応諾率からみて相当大きな誤差を含み、小数点以下の値を算出したり細かな層別結果を出すことは好ましくない」と指摘している。これは実験中の機械式個人視聴率調査に対してなされた指摘であるが、現在の機械式の世帯視聴率調査でも基本的にはあてはまる。
 統計的な誤差の範囲に入る数パーセントの差をめぐって視聴率を争うことは、それ自体がナンセンスであるにもかかわらず、現実には、その誤差の範囲の競争にしのぎを削り、経営政策としても放送現場を視聴率競争に駆り立てる結果になっている。それだけに、視聴率データの持つ役割と限界を明確にしたうえで、編成や営業上のデータとして活用しなければならないし、視聴率至上主義や視聴率競争をあおるような経営政策から脱却する必要がある。

�番組への評価が視聴率だけで決められていることの問題は、放送業界でもかねてから指摘されている。民放連がまとめた「テレビ視聴率の意味」でも記されているように、すでに番組はさまざまな方法で評価されており、「放送番組審議会による評価、視聴者から寄せられる意見、民放連賞をはじめ優れた番組を賞表する制度などは、評価のされ方として重要なものです」との指摘がある。番組審議会の公開制や番組に対する視聴者からの意見の処理の明確化(視聴者へのフィードバックを含むこと)など、さまざまな番組評価が番組の質の向上に活かされる方法を確立すべきである。
 また最近、番組の質的評価を把握する調査手法の開発が進んでいるが、より科学的な調査の確立によって、視聴率だけに頼らない多様な番組評価システムを用意する必要がある。

�視聴率至上主義の過当競争をこのまま続けるならば、放送事業者は自らの手で放送への権力の介入を招き、放送の自由を自ら狭めてしまう危険があることを強く認識しておく必要がある。競争のない社会はありえないが、メディア間の競争によって放送の自由が失われるようなことがあってはならない。むしろ、適切な競争が放送の質や公共性を高める結果に働くような枠組みを、放送事業者自らの手で設定すべきである。

�視聴率調査の科学性、客観性を保持するために、公正な第三者機関(プリントメディアにおけるABC協会のようなもの)による実査とデータ処理・管理を検討すべきである。また、調査結果は広く公表すべきである。




 放送事業は視聴者・市民の“共有財産”である電波を特権的に使うことを許可された免許事業である。それゆえに放送事業者は自らの放送活動やそれに伴う経営関連情報の公開を企業運営の前提としなければならない。これは放送行政や各放送企業の放送活動についての必要な情報を知る、という視聴者の基本的な権利に基づくものである。
 視聴者・市民の基本的な権利としては、主体的には表現の自由についての権利、必要な情報を知る権利、選択する権利、反論する権利、差別されない権利など、言論の自由に関する基本的な権利があるが、そうした権利とあわせて、放送行政や各放送企業の放送活動の内容を知る権利が視聴者・市民には確保される必要がある。これらはいずれも視聴者・市民の要求を経営方針に反映させ、さらには、必要に応じて市民が番組制作に参加することの前提となるものである。
 放送企業の経営の公開は、単に活動結果としての数量的な経営データといった一定期間の業績の公開にとどまらず、経営方針や予算、およびその決定過程をも可能な限りガラス張りにする必要がある。特に放送のデジタル化などによって受信機の買い替えやアダプターの購入など視聴者に過大な負担を強いる局面が今後予想されるなかでは、少なくとも数年にわたる中期的な方針を提示し、視聴者・市民の合意形成につとめなければならない。

1 経営の公開
�NHKも民放各社も計数的な経営実績を十分に公開しているとはいえない。NHKはさらに詳細な資料を発表する(たとえば民放のラテ兼営各社が行っているラジオ、テレビなど媒体種別計数など)ことが必要である。また民放各社は有価証券報告書にとどまらず、予算を含めさらに積極的に財務関連情報を公開するよう努めなければならない。
 民放における株式の移動については、そのことが重大な経営方針の変更を伴う可能性が大きいだけに、逐一情報を公開すべきである。

�NHKの最高意志決定機関である経営委員会は、公開されなければならない。同委員会は放送法に規定された組織であるが、「自由な論議が妨げられる」という理由で、その議事録の公開をいっかんして拒否している。しかし、広く視聴者の受信料制度に依拠するNHKのあり方からして公開は必要不可欠であり、視聴者・市民に対する「知らしむべからず由しむべし」の体質を根本的に転換する必要がある。

�放送事業者が郵政当局から「行政指導」を受けた場合は、その指導内容を公表し、同時に、その指導への対処の詳細を公開しなければならない。

2 視聴者・市民参加
�視聴者・市民の“パブリック・アクセス”を実現するための制度的方策が、ケーブルテレビにおけるパブリック・アクセス・チャンネルの設置を含めて積極的に推進されなければならない。特に総合放送をおこなう地上波放送局においては、その地域の社会的な問題を積極的にとりあげ、少数意見を無視することなく多角的な論点を提示することに努めなければならない。そのためにも、番組の企画、制作の段階から多様な人々が放送活動に参加できるよう努めなければならない。

�各放送局に寄せられた視聴者・市民からの要望や苦情については、それへの対処の経緯や結果を含めて定期的に公表しなければならない。

�各放送局の番組審議会の審議委員は、文化芸術、教育科学、労働、農業、漁業など各分野の代表および視聴者・市民代表を加えた構成にすること。また、審議委員の選定にあたっては、男女の構成比が半々になるようにつとめなければならない。選定した審議委員は、自局の放送を通して視聴者に告知し、周知徹底されなければならない。
 番組審議会は原則として公開とし、審議会の開催日時を自局の放送で告知するとともに、議事録を公開すること。あわせて、審議会の内容をテレビ・ラジオで紹介する努力をおこなわなければならない。

�同じ地域を放送エリアとする複数の放送局がある場合は、それらの放送局が共同で一つの番組審議会をつくり、審議会の自主的、自律的な運営を保障するようつとめなければならない。

�放送局に免許を与えるときおよび放送局の免許更新にあたっては、その放送局の放送エリア内の住民が意見を述べることができる聴聞手続きを制度化する必要がある。行政機関に寄せられた意見はすべて公開するとともに、それらの意見への行政の対応をあわせて住民に報告しなければならない。




 メディア利用者自身が、メディア・メッセージを主体的・批判的に読み解く力を「メディアリテラシー」と呼ぶが、メディア利用者とメディア事業者との関わりを考えるとき、利用者がメディアリテラシーの能力を高めることは、メディア活動に対する監視強化につながり、メディア事業者にとっては、一見、事業活動における新たな足枷が生ずるように見えるかも知れない。しかし、それは視聴者・市民とメディア事業者との健全な緊張関係を生むことにほかならない。視聴者・市民のメディアリテラシーの向上は、メディア事業自体を鍛えることにつながるからである。その意味で、メディアリテラシーの向上は、まさにメディア事業の健全な発展、ひいては、豊かな放送文化を創り上げていくことになると言える。

多メディア・多チャンネル状況とメディアリテラシー
 多メディア化、多チャンネル化によるメディア状況の大きな変化のなかで、人々が接するメディアからの情報量は急激に増大している。また、電気通信技術の発達を背景に、これまでのカテゴリーでは分類できないようなメディア・サービスが登場しつつある。言い換えれば、メディア・システム自体の複雑化、多様化が急速に進行しているのである。そのために、高度化したメディア・システムから提供される大量の情報が、利用者の主体性をも奪うような形で押し寄せたり、また、情報機器の高度化が、それらの機器の利用にともなう能力の格差を生み出すなど、利用者側の混乱を招く恐れが生じている。
 このようにメディアの高度化が進むなかでは、視聴者・市民の主体性、批判性を確立していくことこそが、メディアの変容に押し流されないための方法だといえる。つまり、視聴者・市民がメディア・メッセージ、メディア・システムと向き合うとき、それらをそのまま受け入れるだけでなく、主体的・批判的にメディア・メッセージと向き合う能力が、より一層求められてくるのである。

視聴者・市民と放送事業者の関係
 本来、市民が持っている「知る権利」を付託した公共的装置としてのメディア事業者には、当然のことながら自らの事業活動を律する自律性や自浄能力が求められる。しかし、近年、その自律性に疑問を呈するような表現行為や事業活動があいつぎ、社会的批判を浴びる事例をしばしば見るようになった。これらのメディア事業者の行為に対する社会的な批判は、これまでの視聴者・市民とメディア事業者の関係を揺るがすまでになってきているように思われる。つまりこれまでは、メディアの自律性による公共的な空間の確保が期待され、また求められてもきたが、最近の世界的な動向を見ると、メディア事業者の自律性への視聴者・市民の失望なども含めて、自律性を欠く行為から利用者を守る装置として、国家権力が持つ強制力への期待が以前にもまして高まりつつあると言える。その一つの事例が、アメリカ放送界におけるVチップ導入の決定であり、日本における郵政省・多チャンネル懇でのVチップ導入論議である。
 そのような状況の変化のなかで、メディア事業者と視聴者・市民の関係を考えると、視聴者・市民がメディアリテラシーを高め、より能動的にメディア・メッセージを受けとめることは、両者の健全な関係を作り上げ、維持することにつながるはずである。
 また、視聴者の批判や意見が発生することによって、送り手と受け手のある種のループ系が成立することになる。これこそが放送メディアと視聴者・市民との共生関係を形成する基礎となるはずである。そして、このような視聴者・市民の存在は、つまるところ、メディア事業者を鍛えることになるのである。

メディアリテラシーの運動性
 そのように考えていくと、メディアリテラシーの高まりは、まさに視聴者・市民とメディア事業者との間の良好な関係を形成するためのステップと見ることができる。別の言い方をすれば、市民一人ひとりのメディアリテラシーを高める運動を推進することが、より健全な放送サービスを育てることにもつながるのである。
 もちろん、メディアリテラシーを高めていくなかで視聴者・市民がメディアを媒介とした表現者として自ら主体的に情報発信を行うことも起きてくる。
これまでメディア・メッセージの受容者であった人たちが、自らのメディアリテラシーを高めることによってメディア表現者として活躍することは、既存のメディア事業者と視聴者・市民との関係をも揺さぶることになろう。そうなれば、既存のメディアが縛られていたステレオタイプ的な枠組みを打破し、メディアの表現に新たなる可能性の息吹きを吹き込むことにもつながる。それは、理念としての「メディアリテラシー」が持つエネルギーであるとも言える。




 来るべきマルチメディア時代になっても放送の社会的使命はいささかも変わらず、より比重が高まるに違いない。ドラスチックに変動する社会の不可欠な情報回路として公共空間を形成することが必要である。そのためには、ジャーナリズム機能の一層の強化が図られねばならない。

 技術革新の速度は、年を追うごとに早まり、メディアの在り方を大きく変革させようとしている。なかでもデジタル化の影響はきわめて大きい。その象徴的な現象がデジタル衛星放送による急ピッチな多チャンネル化である。96年10月から始まったこのデジタル衛星放送は、最終的には四〇〇チャンネル近い映像を空から降りそそぐことになる。
 こうしたデジタル放送は、データ通信による電子配信もできるうえ、双方向機能による情報の検索も可能になる。また、パソコンの大幅なレベルアップと低価格化によって急速に普及しているインターネットの存在も大きい。そのうえ、リモコンーつでインターネットと接統し、情報を検索したり、電子メールのやりとりもできるインターネットTVの出現などを見ると、本格的なマルチメディア時代の到来が近いことを予感させる。
 こうしたマルチメディア時代では、放送はどうあるべきだろうか。デジタル衛星放送を見ると、ほとんどが専門チャンネルであり、いわば「非放送」のジャンルに属するエンタテインメントといわゆるコマ切れの断片情報だと言っていい。確かに、マルチメディア社会は欲しい情報を欲しい時に入手することができるかもしれないが、それはコマ切れの断片的な情報であって、総合的な情報ではない。マルチメディア社会は断片的な情報が氾濫する社会だとも言える。それだけに、視聴者に連続的に伝える同報方式のニュースをはじめ、放送機関がジャーナリズムとしての責任によって制作し、総合編成する放送がますます必要不可欠となってくる。
 つまり、マルチメディア社会とは、ジャーナリズムとしての放送の主体性と自律性がより厳しく問われる社会であり、放送にはジャーナリズム機能の強化が要求されることになる。それゆえに、NHK、民放を問わず「放送」には、公共的情報空間を形成し、公共性を堅持しながら番組を提供していく役割と責任が、これまで以上に求められていくはずである。