声明・アピール
「読売修正案NO!」(コメント集) 発表
2002年05月24日
メディア総合研究所
メディア総合研究所
さる5月12日に読売新聞は個人情報保護法案・人権擁護法案に対する修正案を発表しました。この両法案が抱える本質的な問題を踏まえ読売修正案を検討すると、私たちはとてもこの修正案には納得できないと考えます。
今回、メディア研究者、ジャーナリスト、作家の方々にこの「読売修正案」に対するコメントを求めたところ14名・団体から意見が寄せられました。
この意見を冊子にまとめ、本日5月24日、報道各社に対して発表しました。
このコメント集は下記団体の協力にて発表しました。
日本ジャーナリスト会議
日本ペンクラブ
日本マスコミ文化情報労組会議
日本新聞労働組合連合
日本出版労働組合連合会
日本民間放送労働組合連合会
報道の自由を求める市民の会
メディア総合研究所
井上ひさし (劇作家・作家/日本ペンクラブ副会長)
「怪しい公人」たちの側につくのですか
新聞はむろんメディアの主力選手、「怪しい公人たち」の卑劣な行為をあばいて、公権力を監視しつつ社会正義の実現をめざすのが本来の使命です。
ところが、その新聞が「怪しい公人たちを追及するのはもうやめよう」と言い出したわけで、こうなると新聞はもはや新聞ではなく、彼らの主催する野球大会や催し物、また彼等の所有する球団の宣伝紙にすぎなくなります。真の使命を果たそうとしないのなら、もうわたしには不要です。
ちなみに「公人」とは、国民の出した税金でくらし生活を立てながら国民のための仕事をする人たちのことです。その公人たちが「怪しい」ことをするなら、わたしはこれ以上、税金を払いません。新聞協会のみなさん、あなた方は「怪しい公人たち」の側につくのですか。それとも購読者たちの側につくのですか。
真実の報道を求める国民に背を向けた
岩切 信 (ジャーナリスト)
1、「本社の修正試案は、両法案(個人情報保護法案、人権保護法案)のいずれについても、政府案の基本的な枠組みは保ちながら」と読売自身が紙面で述べているように、この試案は、ジャーナリストの報道や市民の言論・表現を国家権力の管理・監視の下に置き、その自由を奪う(憲法21条違反)ものに変わりはない。試案が唱える「報道の自由」を新聞社みずからがふみにじるものである。
2、日本新聞協会は、これまでの声明の中で、「個人情報保護法案」について、「理由目的による制限」「適正な取得」「正確性の確保」「安全性の確保」「本人が関与できる透明性の確保」の5原則はじめ報道目的の個人情報を法案の適用対象から全面的に除外するよう求めてきた。読売試案は、5原則の中の「本人が関与できる透明性の確保」だけを適用除外とした。これは、新聞協会の声明に反する。なお、新聞協会の会長は渡邊恒雄読売新聞社社長である。
3、「人権保護法案」について、試案は強制調査権を持つ新たな行政機関の「人権委員会」の位置付けを、法務局の外局から内閣府の内部機関にするとしたが、いずれも国家権力の一部であることに変わりない。不服申立て制度の創設や表現の自由への配慮義務の明確化を提言しているが、「人権侵害の判断」を国家の管理の下に置くものであり、表現の自由は著しく制限されることに変わりはない。
4、「メディア規制法案」「有事法案」の危険性について、メディアの報道が活発になり、国民の理解が深まり、反対運動が広がる中で、読売がこのような問題がある「試案」を突如として大きく報道したことはまったく理解できない。しかも「人権・プライバシーの保護」と「報道の自由」の両立、というデマゴギーに対しては憤りを感じる。読売は、真実の報道を求める国民に背を向けて、節操も無く小泉政権に迎合したことになる。
読売の記者たちは反対声明を
魚住 昭 (ジャーナリスト)
読売修正案には驚き、呆れ果てた。読売は個人情報保護法案の危険な本質をまったく理解していないのではないか。この法案は単にメディア規制だけを狙ったものではなく、インターネット時代のあらゆる情報発信・表現活動をプライバシー保護の名目で、規制しようとするものだ。「メディアだけは『透明性の確保』の原則から適用除外にしろ」という読売の主張は、第一にメディアの都合しか考えていないという点で話にならない。次に「透明性の確保」だけを適用除外にしても、依然として報道の自由は脅かされるから、その意味でも致命的な欠陥がある。要するにほどほどのところで手を打って政府に恩を売り、読者に対しては「読売の提言が政府を動かした」とPRしようというのだろう。渡邉恒雄体制下の読売新聞の本質を見事に露呈している。読売の良識ある記者たちは、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしているのではないか。黙っていないで労働組合が修正案反対の声明を出すなど、具体的なアクションを起こしてほしい。
ジャーナリズムの責任を放棄
碓氷和哉 (民放労連中央執行委員長)
読売新聞が5月12日付け朝刊で発表した個人情報保護法案、人権擁護法案に対する「修正試案」は修正をうたいながら、その中身は法案が内包する問題点の根本に触れておらず、いわば小手先だけの修正案といわざるを得ない。
個人情報保護法案に対する修正案では報道機関のみを基本原則のひとつである「透明性の確保」の適用を除外するとしている。しかし法案の一番大きな問題点は、すべての国民の「表現の自由」が制限されることであって、報道機関のみを一部の原則から除外することでは何ら解決しない。現在上程されている法案を廃案にし、改めて政府・行政機関などが保有する個人情報の保護を含めた法制度を確立することが何より重要である。
人権擁護では、日本は国連から入国管理局や捜査機関による人権侵害を救済する独立した機関が必要であると勧告されている。法案の想定する法務省の外局や、読売修正案の内閣府の内部機関では独立性が確保されるかどうかに疑問を抱かざるを得ない。また政府も認めているように、報道機関による人権侵害に対して救済措置を講じる行政機関は諸外国にも例を見ない。読売修正案は「報道機関等の取材の自由、表現の自由を妨げてはならない」としているが、メディアによる人権侵害に関して人権機関による調査、調停、勧告を認める点で政府案と何ら変わるものではない。
小泉首相は読売試案が発表されたあと、法案の修正を指示したとされる。この修正案が読売新聞上層部と一部国会議員による「合作」であるとするならば、権力を監視し、批判するジャーナリズム機関としての責任を放棄したものとして指弾されるべきである。
市民のメディア不信を決定的にする
桂 敬一 (東京情報大学教授)
1.読売試案は基本的に、報道が行政の規制の枠内に入るのを承知するものである
新聞協会理事会の「緊急声明」(4月24日)は、報道への政府によるいかなる規制介入にも反対し、報道による人権・プライバシー侵害の問題は、報道機関の自主的な対応に解決を委ねるべきだ、と主張する。具体的には個人情報保護法案に関しては、「基本原則」の5項目すべてを、法として報道に適用することを止めるよう要求するものである。また、人権擁護法案に関しても、差別や虐待と並ぶ位置に報道を置き、報道機関は法によって行政の規制措置を被らなければならない加害行為者として立ち現れ、人権侵害に及ぶ、などと予定すべきではないと主張するものである。
ところが、読売試案は人権擁護法案について、5つの「基本原則」中、「透明性の確保」の原則だけを報道分野への適用から除外してくれれば、あとはかまわないとするのだから、残りについては個人情報保護法案の規制の準拠基準に従うということになり、結局は行政の規制の枠内にみずから入ることを是認するものだというよりほかない。
人権擁護法案については読売試案は、「つきまとい、待ち伏せ、立ちふさがり、見張り、押し掛け、電話、ファクシミリ」を反復して行う、などの文言をもって報道への行政による規制が正当化されるのは許せない、とするものの、「取材逸脱行為による人権侵害」はこの法のなかで規制されてもやむを得ないとしており、これまた政府の規制の枠内に入ることそのものは否定していない。
また、両法案について同じように、行政の規制者(個人情報保護法案では主務大臣、人権擁護法案では人権委員会)に課せられる「表現の自由に対する配慮義務」の書き方を、「表現の自由を妨げることがないよう配慮しなければならない」という曖昧な表現から、はっきり「妨げてはならない」と禁じる表現に変えるよう、読売試案は提案する。しかし、そのような表現になったからといって、規制者の側が「妨げてはいない」といえば、ことは水掛け論に終わるおそれがある。
このようにみてくると、人権・プライバシー保護と報道の自由が両立する提言だと読売は自称するが、報道のうえには行政の大きな網が依然として被さっているのが実情であり、これで報道の自由が確保されたなどとは、到底いえた代物ではないというのが読売試案の実態である。
2.読売試案は、政府が市民を監視する両法案の構造的特徴をそのまま認めるものだ
3年越しの両法案に対する反対運動の前進のなかで、「報道機関」に属さないジャーナリスト、ライター、作家、研究者ほか、多様な表現者や、インターネットを使う市民、NPO・NGO活動に従事する市民など、運動に参加する広範な人々は、これらの法案の危険性が、「報道機関」の取材報道を抑圧するところだけにあるのでなく、自由な市民社会の成熟を妨げてこれを流産させ、日本がふたたび、国民が国家に否応なく縛り付けられる国になっていってしまうところにある、とするより本質的な問題点を明るみに出す結果となった。取材報道への抑圧は、そうした大きな文脈のなかで生じる問題なのだ。
個人情報保護法も人権擁護法も本来は、市民に対する公権力の義務の不履行や、その不作為による無責任、あるいは不法行為から、市民のプライバシー侵害や人権侵害が惹起されたり、それらの被害が放置されたりすることがないように、市民は政府を監視することができる、とする構造的特徴を備えた法律として構成されるべきものである。その構造的仕組みのなかでは、政府は、市民に説明責任を負い、みずからのあり方に関してつねに透明性を保障しなければならない。
ところが、国会にかかっている個人情報保護法案、人権擁護法案はどちらも、この監視のベクトルが完全に逆転、反対を向くものになっている。
すなわち、政府は、民間人同士のごたごたのなかでプライバシーを侵害されたり、いじめに遭ったり、とかく非力な被害者や困惑している弱者がいたら、強力な権限を行使してこれらの被害者を救済する―そのためには法律によって明確な職権を定めておき、それを掌握、効果的に使えるようにする必要がある―として、その根拠を両法案のなかに書き込む方法をとったのだ。被害者・弱者救済には、加害を及ぼす行為や行為者を想定、これらを予防的に排除したり、その行為を事前に防止したりするする必要も生じる。その結果、政府は広い範囲にわたって市民を監視し、規制を加えることができる権限を手にするものとされる。
これが本当の個人情報保護制度、人権擁護制度といえるだろうか。
すでに多くの自由なジャーナリスト、表現者や市民は、政府の両案は諸外国の同名の法律制度とは似て非なるものであることを見抜き、市民の人権・プライバシーが守れるものとするには、両案は完全に構造的に解体、再構築されなければならない、と主張するにいたっている。
すなわち、個人情報保護法に関しては、基本法と個別法の分離、基本法におけるジャーナリズム・学術・芸術への基本原則の適用除外の明記、ならびに「自己情報コントロール権」確立の明記、個別法としての政府機関個人情報保護法の先議と適切な実現、などの要求が叫ばれるまでになっている。
また、人権擁護法だが、政府法案のような包括法としての制定が、そもそも必要なのだろうか。たとえば、民生委員制度、児童委員制度、家裁、労働委員会などが適切に機能していれば、差別・虐待事件の多くは本来、防止したり解決したりできるものではないのか。これら制度の空洞化を促し、放置しておいて、行政が直接関わる人権委員会がそれらすべての救済に当たるとするのは、行政のアリバイづくりではないのか。
読売試案は、このような問題点をまったく無視し、政府案を、基本的には人権を守るものとみなしている。これでは、この法案に反対する運動がすでに到達しているレベルでの人権保護の条件を満たすことにならないどころか、その足を引っ張り、運動の発展を阻害することになる、といわれてもしょうがあるまい。
3.「報道機関」への例外的特典適用による解決は市民のメディア不信を決定的にする
読売試案は、「報道の自由」と人権・プライバシーとを両立させ、そのどちらをも守ることに役立つものであるどころか、その両方を、大局的には政府の思惑のなかに誘導する役割を果たすものとなるだろう。すなわち、この試案による法案修正が行われ、法律が制定されれば、政府はこの二つの法律をうまく操り、「報道の自由」と市民の人権・プライバシーは、自分が許容できる範囲で守ればいいことになるからだ。
こうした枠組みのもとで、「報道機関」は、個人情報保護法に関しては他の民間個人情報取扱事業者よりは、規制を被る度合いが小さくてすむ特典を享受する。人権擁護法に関しても、「取材逸脱行為」などという曖昧な表現の基準によって規制を受けるだけだから、行政の裁量いかんで、負うべき責任が軽くなる可能性も出てくる。これらの条件は、「報道機関」にのみ特恵的に与えられる特典で、他の民間個人情報取扱事業者にはそうした条件は許されない。そして、これら他の民間個人情報取扱事業者とみなされるもののなかに、「報道機関」に属さない多くのライター、作家、インターネットを駆使する市民たちが入ってくるのだ。
これら「報道機関」に属さないライター、作家、インターネットを駆使する市民たちと切り離され、政府が許容する範囲での特典を独り享受することになる「報道機関」は、「報道の自由」の独立的な基盤を堅持していけるのだろうか。この特典は、「報道機関」と政府との協力関係がうまくいけばそれだけ、大きなものとなり、両者のあいだが険悪なものになれば、小さくなるメカニズムのもとに置かれている。このような特典に依存すれば、「報道機関」は結局、権力に引き寄せられていく力に抗することができず、みずからそちらににじり寄っていくことになってしまうだろう。これでは、「報道機関」に属さない人々や多くの表現とコミュニケーションの活動に従事する市民たちとの連帯は断ち切られ、そこから生まれる不信の深みのなかで、ついには読者・視聴者の信頼をも完全に失う事態に見舞われてしまうのではないか。
読売試案は人権擁護法案に関して、人権委員会の調査や救済措置に対して不服申し立てができる制度の設置を提言する。一見もっともなことのようにみえるが、元来この委員会が、行政機関=法務省の出先としての性格を払拭しきれず、独立性に疑問がもたれるところから調査や判定の中立性、措置決定の公平性に不安が残り、とくに法務省所管機関(たとえば刑務所とか出入国管理局)などにおける公権力の人権侵害に対して公正な処理ができるのか、疑問視されているのだから、このような人権委員会の調査・措置だけを捉えて不服申し立て制度の設置をいってもナンセンスであり、まずこの委員会をいかに独立的かつ中立的なものとし、それ自体に自主的な、大きな裁定機能を付与できるようにするかが、解決すべき要の問題となるはずである。
ところが読売試案は、この委員会の性格付けについて、これを、原案の法務省の外局に位置付けられる「3条委員会」としてではなく、内閣府の内部機関、「8条委員会」として設置する、という提案を行うのだ。しかし、それは、委員会に対する政府の責任は明確にするものの、委員会の政府からの独立性はほとんど奪ってしまうのだから、なにをかいわんやである。この段階からすでに読売は、人権救済は「報道機関」も権力の側に立って図ればよいのだ、とする立場を明らかにしているようなものだ。
人権救済に本当に役立つ独立的な委員会を創設しようとするのであれば、法曹家、社会活動家、研究者、ジャーナリストなど、民間が主体となり、コミッショナー制を採用するなどの新しい工夫が必要になるのではないか。「報道機関」はみずからも社内オンブズマン的な組織活動の経験を急速に成熟させ、それらの集団的な成果を踏まえて、このような新しい方向を模索、それを推進していくべきではないか。その方向でなら、「報道機関」に属さない表現者や広範な市民との連帯・協力の機会を、見出すことができる。
報道界は、読売試案をどう受け止めるべきか。それは、ウチではないヨソの社がやったことだ、ではすまされない問題になっている。読者・視聴者、市民は、報道界の今後のあり方全体を占う視点から、メディア企業、ジャーナリストの態度をみつめている。
一部修正で認められるようなものではない
須藤春夫 (法政大学教授/メディア総研所長)
読売新聞が発表した「個人情報保護法案」「人権擁護法案」の部分修正試案は、両法案の持つ根本的な問題点をそのままにして、メディア規制に関わる一部分のみを修正することで成立を認めようとする極めて問題ある提言といわねばならない。
「個人情報保護法案」についていえば、読売新聞が提言するような「透明性の確保」の原則を報道分野について適用を除外すれば「報道の自由」が確保できるとはいえない。同じ基本原則にある「利用目的による制限」「適正な取得」についても取材活動を著しく制約するものであり、ひいては「報道の自由」と「市民の知る権利」が阻害される。
そもそもこの法案は、検討経過からして問題をはらんでいる。本来、政府の有する個人情報をコントロールする法律として成立させなければならないものを、途中で民間と報道を含めたものにすり替わってしまった。したがって、保護すべき「個人情報」とは何なのかの議論が全く抜け落ちているために、報道取材に個人情報の保護をかぶせるというおかしな法案が作られてきたのである。
「人権擁護法案」についても人権侵害の取り上げ方がきわめて恣意的に扱われ、特に公権力による人権侵害は軽んじられているという大きな問題をはらんでいる。
このように、両法案とも、一部の修正をもってすれば成立が認められるような性格のものでないことは明らかである。法案の骨格を是認したうえで、メディアだけを適用除外にすれば良しとする読売新聞の提言は、自分たちの損得勘定だけで考えられており、市民権としての言論・表現の自由を守り拡大するという視点が全く欠落している。この修正提言は、政府の「部分修正で成立」という思惑に手を貸すだけでなく、市民のメディア不信をいっそう強める結果を招くことになる。二つの法案とも廃案とし、抜本的な見直しを図る声を更に大きくしなければならない。
不備な法案を温存する
隅井孝雄 (京都学園大学教授)
現在国会に上程されている個人保護法案はこれからの新しい電子情報時代にかかわるきわめて重要な法案です。
しかし現在の案では
1.電子政府、住民基本台帳にかかわる行政の個人情報乱用の歯止め、規制についてまったくルーズであり、事実上野放しである。
2. 企業の集積する個人情報に対する市民の側のアクセス権、監視権など、市民の情報権に対する認識が欠如している。
3. 新しい情報手段であるインターネットの今後の発展を規制し、阻害する要因ともなりかねない条項を含んでいる。
4. 報道への基本原則の適用は、言論、報道、取材の自由、市民の知る権利を侵害するものである。全面的に適用除外とすべきである。
という理由から、私は法案を全面的に撤回し、新しく見直すべきだと思います。
その意味で、読売新聞の提案は、報道への適用等一部に前向きの部分も見受けられますが、現在の不備な法案を温存することにつながり、また報道干渉への余地も残るとおもいます。したがって私は賛成しかねます。
読売提案について問題点の指摘は長くなりますので控えさせていただきます。
市民のメディア不信を深めてしまう
田島泰彦 (上智大学教授)
行政機関など国家が報道の中身に立ち入って関与している点など、法案は本質的に問題があり、廃案にして議論をやり直すのが正しいやり方だ。しかし、読売新聞の試案は自分たちのメディアにかかわる一部分だけの手直しで、法案全体の枠組みを変えていない。従来の主張を突然翻し、政府に迎合するような修正案しか出せないのでは「結局、自分たちの利害で身勝手にやっている」と、市民のメディアに対する不信を深めてしまう。
市民が法案の存在や疑問をようやく感じ始めたときに中途半端で妥協的な案を出すのは、廃案に向けたメディアや野党の動きに水を差すことになる。メディアが分断され、動きがとれなくなれば、法案を通す側の思うつぼだ。他のメディアはその問題点を指摘してほしい。首相が読売の記事に言及して修正を指示するのは、再販制度の維持など何らかの政治的な取引があったと思われても仕方がない。読売は唐突に主張を変えた理
由を説明すべきだ。
法案全体の問題点をもっと報道すべき
畑 衆 (新聞労連中央執行委員長)
読売新聞の修正提言について読者はかなり冷めているのではないか。この提言をきっかけに与党が小手先修正で両法案を可決させてはならな
いが、今回の提言に対する効果のプラス面とマイナス面はもう少し時間を置かないと判断できない。反対するだけで具体的な修正を提言をしないと読者から理解されないという危機意識が読売にあったとすれば、その点については是認できる。
それでもなお、たいへん気になるところもある。それは3点ある。
?個人情報保護法案にかかわる今回の提言は、新聞協会のこれまでの主張、つまり5つの基本原則から報道分野をはずせと訴えてきた点と異なる。協会の主張と異なったのはなぜか。5原則のうち「透明性の確保」だけ報道分野を除外するだけで取材源の秘とくが守れるのかという理由も含めて、その点が説明されていない。
?「人権・プライバシーの保護」と「報道の自由」という二つの重要なテーマの両立をどう図るべきか、という立脚点からの修正提言に過ぎない。これほどの重要法案をなぜ「報道の自由」という点からだけしか論じられないのか。紙面では説明されていないし、法案の内容を詳しく知らない読者ですら理解できないだろう。
?法案に反対しているのはメディアだけではない。修正提言を示すのであれば、そうした団体の意見を踏まえて出さないと広い共感を得られないのではないはずである。「提言報道」を旨とする読売にしては拙速の感を免れない。
メディアはおしなべて両法案の必要性を認めていながら、法案全体の問題点を十分に伝えてこなかった。「メディア規制法案」呼ばわりするだけでは読者も理解してくれないだろう。各報道機関は読売提言を受けて「ではどうするか」という問いに対する答えを用意しなければならなくなったと同時に、法案全体の問題点を報道する責務は一段と重くなったといえる。
明らかになった人権軽視意識
服部孝章 (立教大学教授)
2002年5月12日付け読売新聞朝刊は日本のジャーナリズム史に汚点として永遠に残るだろう。
その修正試案は、報道規制策にかかわる部分の修正に重点を置き、個人情報保護、人権擁護についてあるべきシステムを提示していない見解で、政府提案の根幹部分を認めたものでもある。
かつて同社は、「読売新聞憲法改正試案」を1994年11月3日付け朝刊で発表した。その経緯を特集した『THIS IS 読売』(同年12月号)で、「占領下の習性、その後の社共護憲左派勢力による自衛隊や国歌・国旗等の私生児扱いなどに見られた反体制運動と反米親ソ路線等の影響下で、政界、マスコミ界を通じて「違憲だ」と言えば、万事思考停止になってしまうという憲法タブー社会が半世紀も続いて来た。もはや時代錯誤的なタブーに挑戦し、繁栄の孤島に安住する知的怠惰を克服すべき時に来ている」と、憲法タブーに挑戦した「試案」であると位置づけている。
同社は、この憲法改正試案を検討する中で、世界人権宣言や国際人権規約に掲げられた人権条項が、現行憲法に欠落していると指摘し、「日本国憲法の今後を考える場合、人権条項の国際的な広がりを視野に入れる必要性が痛感される」(読売新聞社編『憲法 21世紀に向けて 読売改正試案・解説・資料』、P.229、同社、1994年11月)と記している。
この改正試案と今回の修正試案との整合性はどうなのか。この5月12日の同紙には、「個人情報保護法案と人権擁護法案に対する今回の修正試案は、本社自らがまとめた憲法改正試案との整合性を念頭に置いた」との解説がある。若干整合性があるのは人権・プライバシーの保護の部分で、そこではその姿勢が貫かれているともいえるが、国際人権規約等に見られる人権条項については、政府案に対し修正を求めることもなく、なんら触れていない。
ということは、この修正試案にみられる姿勢こそが、読売新聞のめざす「個人情報保護・人権擁護」のあり方となることを確認しておかねばならない。表現規制について、同社の修正試案により「政府案以上に行政の介入を排除できる」(5月12日解説記事)とする認識にこそ、表現分野への行政介入を当然視する姿勢を見て取れる。
国際機関から指摘され続けてきた独立した人権救済機関の設立、公権力による虐待、代用監獄問題、解決を迫られている多くの課題を解決しようとすることもせず、国際社会では例を見ないメディア規制案をこれらの法案に盛り込む、権力志向の状況を一部是認する姿勢を批判しなければ、行政に取材・報道の是非の判断をゆだねる社会の到来を承認することになる。
報道機関は読者、視聴者そして市民に顔を向けた存在であるはずだ。しかし今回の読売新聞の修正試案提言は、ベクトルの方向を間違えたものであり、読者を間違った方向に誘うものでもある。同時に権力を監視すべき報道機関のあるべき姿を変え、権力に迎合する姿勢を歴史に残した提言である。こうした「社論」に、同社の従業員、ジャーナリストは意見の表明を封殺されたままなのか。同社の社内言論の自由の行方を見守りたい。同社OBの前澤猛氏の『表現の自由が呼吸していた時代 1970年代 読売新聞の論説』(コスモヒルズ刊 2002年3月)への回帰は困難なのか。新聞協会や民放連などをはじめ個々の報道機関も反対の見解を発表している中で、こうした読売提言を正面から攻撃しないのであるならば、経営至上主義の発想から、いつの日か政府提案を承認することになるかもしれない。ともかくも、そうした事態を回避すべく、徹底した読売提言検証・批判と個人情報保護のあり方、そして人権擁護のあり方等を模索し続けることこそが、ジャーナリズムに求められている。
会長自ら新聞協会の方針への裏切り
原 寿雄 (ジャーナリスト)
5月12日に発表されたメディア規制二法案に対する読売の修正試案は、新聞協会会長自ら協会の決めた反対方針を裏切るもので、信義にもとる。自身が責任者として協会の総意で決めたことを、弊履のように棄てて省みないとは、人間の品格を疑わざるを得ない。このような人物を新聞界代表として戴く日本ジャーナリズムの現状を深く悲しむ。だが、ことは言論・表現の自由の命運、日本の民主主義にかかわる重大事であり、放置し得ない。小泉首相はすばやく呼応して政府案の修正検討を指示したが、読売修正試案は窮地の小泉政権を救い出すための救命ブイを投げたものであり、表現の自由を侵す二法案の危険性を除去するものでは全くない。ジャーナリズムが監視すべき対象が逆にジャーナリズムを監視する本質は変わらない。
読売修正案は、個人情報保護法案の基本5原則のうち「透明性の確保」は取材源の秘匿を脅かすからと、報道分野に適用しないよう求めている。他の「利用目的の明確化」「適正取得」「安全性」「正確性」はメディアにも努力義務を認めている。これは新聞協会が昨年3月に政府に出した意見書で「法の適用から全面的に除外する」よう求めた方針に反する。協会理事会が「報道機関を監督する主務大臣を置くような同法案に断固反対」の緊急声明を改めて出したのは、国会で提案理由説明が始まる前日、4月24日のことである。読売案は「政府がジャーナリズムに介入できる」法案に対し、受け入れを表明したものである。
また修正案は二法案とも、表現の自由への配慮条項を「妨げることがないよう配慮しなければならない」から「妨げてはならない」に変えているが、主務大臣が「十分配慮した」と言えばそれ以上「自由の保障」を担保するものはない。言葉のあやで本質を隠すな、と言いたい。
人権擁護法の他の修正点も表面的なものに止まる。政府案が特別救済を発動する過剰取材について「つきまとい、待ち伏せ、立ちふさがり、見張り、押しかけ、電話・ファクシミリ」の反復、継続を対象にしているのを、「取材逸脱行為による人権侵害」に言い換えようというものである。これでは拡大解釈の危険度を増すだけではないか。第一、新聞協会は今年3月、NHK、民放連との共同声明でも、差別、虐待と同列に報道による人権侵害を扱う点を「政府機関による報道への干渉につながる恐れがある」とし、反対の意向を表明している。この声明を政府に手渡した時の新聞協会代表は読売の社会部長である。
修正案が人権擁護法案に不服申立て制度を求めるのは良いとして、人権委員会を法務省の外局から内閣府の一部局とする修正案は、大臣の責任体制を明確にする一方で独立性を弱める。
法務省資料の海外14カ国の例にメディアを対象にした人権救済機関はない。
民主主義への背信である
報道の自由を求める市民の会
去る5月12日、読売新聞社は自紙上に、個人情報保護法案及び人権擁護法案の政府案に対する修正試案を公表した。
この2法案は、言論、表現および報道の内容を政府が判断し規制し得る条項を含むことから、早くから多くの市民、関係者がシンポジウムや学習会等を重ね、反対を表明してきた。個人情報の保護も人権の擁護も、誰しもその喫緊の必要性は認めながらこれほど広範な反対が巻き起こったのは、法案の中味が、その必要とされるものとはおよそかけ離れていたからだ。
即ち、前者は、「行政機関個人情報保護法」と併せ読めば分かるように個人情報の集中する行政機関に対してはより甘く、結果的に官が民を取り締まるものとなっている。さらに、最も配慮を要するセンシティブ情報について収集等の禁止も盛り込まれないなど、その不徹底さが指摘される一方、言論、表現及び報道の領域にも広範に網を掛け、政府が直接この領域に立ち入ることを可能にするものである。また、後者は、国民が求めるのは公権力による人権侵害をも防止する高い独立性を持つ機関であるのに、法案ではその手当は全く不十分であるばかりか、「メディアによる人権侵害」を大きく扱うことにより、ここでもまた、言論、表現、報道への政府介入を許すものとなっている。
こうした問題性は、関係者や市民から素案もしくは中間報告の段階から指摘されていたにも関わらず、政府与党は今国会に法案を提出、成立を目指すことで合意した。ところが、その国会は、冒頭から外務省と鈴木宗男議員を巡る疑惑の解明に費やされ、加藤元幹事長前事務所代表の脱税事件、複数政党にまたがる秘書給与流用問題等々で混乱を極め、また、瀋陽日本総領事館の事件から新たな外務省問題も噴き出すなど、いまだ法案の実質審議が行われる環境は整っていない。
このような状況下、最大部数を誇る新聞社が修正試案を公表したことの意味は、誰が見ても明らかである。法案成立が危ぶまれはじめるなか、やっと審議入りしたいまのこの時機に形ばかりの修正案を出すなら、政府はそれを取り入れることで実を取り早期成立を期すことは目に見えているからだ。事実、小泉首相は即座に検討するようにとの指示を出したと伝えられている。
読売は、まさしくこのような効果を予測して、修正案を出した。何の意図もなく、結果に対する何らの見通しもなかったというほど彼らが愚昧なはずはないのである。とすれば、明らかにこれは、読売新聞が政府と一丸となり、報道を取り締まるための法律の制定に協力している以外の何ものでもない。まさか、いやしくも報道機関たる読売が、これほどあからさまに政府に取り込まれることを望み、その自由と独立を放棄しようとは、私たちは思ってもみなかった。
いったい、「報道の自由」とは、何からの自由なのか。
読売の修正試案によれば、個人情報保護法案は、基本5原則のうち「透明性の確保」のみの適用除外が提案されている。では、読売は、政府から「利用目的による制限」を受けても構わないのだろうか。適正な取得であるかどうか、正確であるか否か、政府に判断して貰うというのだろうか。さらに、人権擁護法案の修正試案では、何が「取材逸脱行為」であるかの判断を政府に委ねるのか。自主機関を設置して自律的な問題解決を図る能力はないので、政府に一任しようというのか。また、この法案は、公人と私人の区別をしていないが、読売は公権力を監視するつもりがないので、それも受け入れるというのか。公人がみだりに人権侵害を言い立て、政府が恣意的にこれを認めることがあれば、それはそれで構わないというのか。
しかし、ことはそれだけでは済まないのである。読売が進んで政府の判断に従うのは勝手であるとして、その修正試案という協力で法案が成立する場合、幾多の表現者や報道人の自由が侵害されることになるからだ。また私たち表現物や情報の受け手にとっては、多様な文化の享受、情報の取得を阻まれることになるからだ。
報道の、政府からの自由と独立は民主主義の根幹をなす重要な要素である。
だからこそ、これまで多くの国々で人々は圧政から逃れるために報道の自由を渇望してきた。そして、今もなお、独立を果たした国あるいは紛争の収まった国では、何よりもまず報道の自由を確立しようとするのである。それなのに、曲がりなりにもその自由を憲法で保障されたこの国で、こともあろうに、報道機関自身が進んで政府に協力し、この貴重な価値を惜しげもなく投げ捨てようとは。
今回、読売新聞がこの時機に、政府が最も喜んで飛びつきかねない修正試案を公表したことは、民主主義に対する恥ずべき背信行為であると、私たちは断ぜざるを得ない。そして、政府によって歪められない情報を受け取りたいと願う市民として、私たちは、限りない失望と憤りとをこめ、強く、つよく抗議したいと思うのである。
信じ難いジャーナリズム冒涜行為
前澤 猛 (東京経済大学教授)
メディア倫理の問題はメディアの自主性に委ね、公権力の介入を許さないのは、自由社会、民主主義国において当然過ぎる常識である。その観点から、日本新聞協会は挙げてメディア規制2法案に反対すべきであり、また、現に反対している。にもかかわらず、その会長が自社提言で率先して「法制の整備は急務」と主張し、細部の修正で政府案に擦り寄り、法成立に助力するとは、信じ難いジャーナリズム冒涜行為だ。
こうした事態が発生する背景には、「表現の自由」の優越的地位が確立しておらず、権力監視が弱いうえ、権力と癒着しがちな、日本のジャーナリズムの特質があり、またその事実に対するジャーナリストの自覚欠如がある。
私は、こうした、ジャーナリズムの改革とジャーナリストの反省を促し、メディアが挙げてメディア規制法案と対決するために、各社はもちろん、日本新聞協会は、読売提言を真正面から批判し、同時に渡邊恒雄氏の新聞協会会長不信任を決断すべきだと思う。
マスメディアの“横暴”はゴメンだ
吉田 司 (ノンフィクション作家)
読売試案は、個人情報保護法案に対しマスメディアがいかに不勉強であるかを満天下に暴露して“赤っ恥”をかいたと言って良い。不勉強でなければ、この試案を起草した人物は相当に頭(オツム)が弱い。個人情報保護法案の本質は、メディア規制にあるのではない。それは、自民党スキャンダル派が、森内閣のときに“取って付けた”付属物にすぎない。本当の危険性は、「5000名程度の個人データを持つ者は、〈メディアに限らず〉誰でも〈個人情報取扱事業者〉にされ」国家の情報統制下に置かれるという、コンピュータ時代における《国民管理法案》(=電子的・治安維持法)となっている点にある。インターネット上における市民的「発信と受信の自由」を規制する、電子グローバリズムへの反動法案と言い換えてもいい。
読売試案なんかでウカウカ修正・可決させたら、マスメディアの利益(報道の自由)は守られたが、市民の「表現の自由」は絶滅した――ってな“暗黒の国民国家”を招きかねない。読売新聞を親分にしたマスメディアの“横暴”だけがはびこる世の中は、ゴメンである。
今回、メディア研究者、ジャーナリスト、作家の方々にこの「読売修正案」に対するコメントを求めたところ14名・団体から意見が寄せられました。
この意見を冊子にまとめ、本日5月24日、報道各社に対して発表しました。
このコメント集は下記団体の協力にて発表しました。
日本ジャーナリスト会議
日本ペンクラブ
日本マスコミ文化情報労組会議
日本新聞労働組合連合
日本出版労働組合連合会
日本民間放送労働組合連合会
報道の自由を求める市民の会
メディア総合研究所
井上ひさし (劇作家・作家/日本ペンクラブ副会長)
「怪しい公人」たちの側につくのですか
新聞はむろんメディアの主力選手、「怪しい公人たち」の卑劣な行為をあばいて、公権力を監視しつつ社会正義の実現をめざすのが本来の使命です。
ところが、その新聞が「怪しい公人たちを追及するのはもうやめよう」と言い出したわけで、こうなると新聞はもはや新聞ではなく、彼らの主催する野球大会や催し物、また彼等の所有する球団の宣伝紙にすぎなくなります。真の使命を果たそうとしないのなら、もうわたしには不要です。
ちなみに「公人」とは、国民の出した税金でくらし生活を立てながら国民のための仕事をする人たちのことです。その公人たちが「怪しい」ことをするなら、わたしはこれ以上、税金を払いません。新聞協会のみなさん、あなた方は「怪しい公人たち」の側につくのですか。それとも購読者たちの側につくのですか。
真実の報道を求める国民に背を向けた
岩切 信 (ジャーナリスト)
1、「本社の修正試案は、両法案(個人情報保護法案、人権保護法案)のいずれについても、政府案の基本的な枠組みは保ちながら」と読売自身が紙面で述べているように、この試案は、ジャーナリストの報道や市民の言論・表現を国家権力の管理・監視の下に置き、その自由を奪う(憲法21条違反)ものに変わりはない。試案が唱える「報道の自由」を新聞社みずからがふみにじるものである。
2、日本新聞協会は、これまでの声明の中で、「個人情報保護法案」について、「理由目的による制限」「適正な取得」「正確性の確保」「安全性の確保」「本人が関与できる透明性の確保」の5原則はじめ報道目的の個人情報を法案の適用対象から全面的に除外するよう求めてきた。読売試案は、5原則の中の「本人が関与できる透明性の確保」だけを適用除外とした。これは、新聞協会の声明に反する。なお、新聞協会の会長は渡邊恒雄読売新聞社社長である。
3、「人権保護法案」について、試案は強制調査権を持つ新たな行政機関の「人権委員会」の位置付けを、法務局の外局から内閣府の内部機関にするとしたが、いずれも国家権力の一部であることに変わりない。不服申立て制度の創設や表現の自由への配慮義務の明確化を提言しているが、「人権侵害の判断」を国家の管理の下に置くものであり、表現の自由は著しく制限されることに変わりはない。
4、「メディア規制法案」「有事法案」の危険性について、メディアの報道が活発になり、国民の理解が深まり、反対運動が広がる中で、読売がこのような問題がある「試案」を突如として大きく報道したことはまったく理解できない。しかも「人権・プライバシーの保護」と「報道の自由」の両立、というデマゴギーに対しては憤りを感じる。読売は、真実の報道を求める国民に背を向けて、節操も無く小泉政権に迎合したことになる。
読売の記者たちは反対声明を
魚住 昭 (ジャーナリスト)
読売修正案には驚き、呆れ果てた。読売は個人情報保護法案の危険な本質をまったく理解していないのではないか。この法案は単にメディア規制だけを狙ったものではなく、インターネット時代のあらゆる情報発信・表現活動をプライバシー保護の名目で、規制しようとするものだ。「メディアだけは『透明性の確保』の原則から適用除外にしろ」という読売の主張は、第一にメディアの都合しか考えていないという点で話にならない。次に「透明性の確保」だけを適用除外にしても、依然として報道の自由は脅かされるから、その意味でも致命的な欠陥がある。要するにほどほどのところで手を打って政府に恩を売り、読者に対しては「読売の提言が政府を動かした」とPRしようというのだろう。渡邉恒雄体制下の読売新聞の本質を見事に露呈している。読売の良識ある記者たちは、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしているのではないか。黙っていないで労働組合が修正案反対の声明を出すなど、具体的なアクションを起こしてほしい。
ジャーナリズムの責任を放棄
碓氷和哉 (民放労連中央執行委員長)
読売新聞が5月12日付け朝刊で発表した個人情報保護法案、人権擁護法案に対する「修正試案」は修正をうたいながら、その中身は法案が内包する問題点の根本に触れておらず、いわば小手先だけの修正案といわざるを得ない。
個人情報保護法案に対する修正案では報道機関のみを基本原則のひとつである「透明性の確保」の適用を除外するとしている。しかし法案の一番大きな問題点は、すべての国民の「表現の自由」が制限されることであって、報道機関のみを一部の原則から除外することでは何ら解決しない。現在上程されている法案を廃案にし、改めて政府・行政機関などが保有する個人情報の保護を含めた法制度を確立することが何より重要である。
人権擁護では、日本は国連から入国管理局や捜査機関による人権侵害を救済する独立した機関が必要であると勧告されている。法案の想定する法務省の外局や、読売修正案の内閣府の内部機関では独立性が確保されるかどうかに疑問を抱かざるを得ない。また政府も認めているように、報道機関による人権侵害に対して救済措置を講じる行政機関は諸外国にも例を見ない。読売修正案は「報道機関等の取材の自由、表現の自由を妨げてはならない」としているが、メディアによる人権侵害に関して人権機関による調査、調停、勧告を認める点で政府案と何ら変わるものではない。
小泉首相は読売試案が発表されたあと、法案の修正を指示したとされる。この修正案が読売新聞上層部と一部国会議員による「合作」であるとするならば、権力を監視し、批判するジャーナリズム機関としての責任を放棄したものとして指弾されるべきである。
市民のメディア不信を決定的にする
桂 敬一 (東京情報大学教授)
1.読売試案は基本的に、報道が行政の規制の枠内に入るのを承知するものである
新聞協会理事会の「緊急声明」(4月24日)は、報道への政府によるいかなる規制介入にも反対し、報道による人権・プライバシー侵害の問題は、報道機関の自主的な対応に解決を委ねるべきだ、と主張する。具体的には個人情報保護法案に関しては、「基本原則」の5項目すべてを、法として報道に適用することを止めるよう要求するものである。また、人権擁護法案に関しても、差別や虐待と並ぶ位置に報道を置き、報道機関は法によって行政の規制措置を被らなければならない加害行為者として立ち現れ、人権侵害に及ぶ、などと予定すべきではないと主張するものである。
ところが、読売試案は人権擁護法案について、5つの「基本原則」中、「透明性の確保」の原則だけを報道分野への適用から除外してくれれば、あとはかまわないとするのだから、残りについては個人情報保護法案の規制の準拠基準に従うということになり、結局は行政の規制の枠内にみずから入ることを是認するものだというよりほかない。
人権擁護法案については読売試案は、「つきまとい、待ち伏せ、立ちふさがり、見張り、押し掛け、電話、ファクシミリ」を反復して行う、などの文言をもって報道への行政による規制が正当化されるのは許せない、とするものの、「取材逸脱行為による人権侵害」はこの法のなかで規制されてもやむを得ないとしており、これまた政府の規制の枠内に入ることそのものは否定していない。
また、両法案について同じように、行政の規制者(個人情報保護法案では主務大臣、人権擁護法案では人権委員会)に課せられる「表現の自由に対する配慮義務」の書き方を、「表現の自由を妨げることがないよう配慮しなければならない」という曖昧な表現から、はっきり「妨げてはならない」と禁じる表現に変えるよう、読売試案は提案する。しかし、そのような表現になったからといって、規制者の側が「妨げてはいない」といえば、ことは水掛け論に終わるおそれがある。
このようにみてくると、人権・プライバシー保護と報道の自由が両立する提言だと読売は自称するが、報道のうえには行政の大きな網が依然として被さっているのが実情であり、これで報道の自由が確保されたなどとは、到底いえた代物ではないというのが読売試案の実態である。
2.読売試案は、政府が市民を監視する両法案の構造的特徴をそのまま認めるものだ
3年越しの両法案に対する反対運動の前進のなかで、「報道機関」に属さないジャーナリスト、ライター、作家、研究者ほか、多様な表現者や、インターネットを使う市民、NPO・NGO活動に従事する市民など、運動に参加する広範な人々は、これらの法案の危険性が、「報道機関」の取材報道を抑圧するところだけにあるのでなく、自由な市民社会の成熟を妨げてこれを流産させ、日本がふたたび、国民が国家に否応なく縛り付けられる国になっていってしまうところにある、とするより本質的な問題点を明るみに出す結果となった。取材報道への抑圧は、そうした大きな文脈のなかで生じる問題なのだ。
個人情報保護法も人権擁護法も本来は、市民に対する公権力の義務の不履行や、その不作為による無責任、あるいは不法行為から、市民のプライバシー侵害や人権侵害が惹起されたり、それらの被害が放置されたりすることがないように、市民は政府を監視することができる、とする構造的特徴を備えた法律として構成されるべきものである。その構造的仕組みのなかでは、政府は、市民に説明責任を負い、みずからのあり方に関してつねに透明性を保障しなければならない。
ところが、国会にかかっている個人情報保護法案、人権擁護法案はどちらも、この監視のベクトルが完全に逆転、反対を向くものになっている。
すなわち、政府は、民間人同士のごたごたのなかでプライバシーを侵害されたり、いじめに遭ったり、とかく非力な被害者や困惑している弱者がいたら、強力な権限を行使してこれらの被害者を救済する―そのためには法律によって明確な職権を定めておき、それを掌握、効果的に使えるようにする必要がある―として、その根拠を両法案のなかに書き込む方法をとったのだ。被害者・弱者救済には、加害を及ぼす行為や行為者を想定、これらを予防的に排除したり、その行為を事前に防止したりするする必要も生じる。その結果、政府は広い範囲にわたって市民を監視し、規制を加えることができる権限を手にするものとされる。
これが本当の個人情報保護制度、人権擁護制度といえるだろうか。
すでに多くの自由なジャーナリスト、表現者や市民は、政府の両案は諸外国の同名の法律制度とは似て非なるものであることを見抜き、市民の人権・プライバシーが守れるものとするには、両案は完全に構造的に解体、再構築されなければならない、と主張するにいたっている。
すなわち、個人情報保護法に関しては、基本法と個別法の分離、基本法におけるジャーナリズム・学術・芸術への基本原則の適用除外の明記、ならびに「自己情報コントロール権」確立の明記、個別法としての政府機関個人情報保護法の先議と適切な実現、などの要求が叫ばれるまでになっている。
また、人権擁護法だが、政府法案のような包括法としての制定が、そもそも必要なのだろうか。たとえば、民生委員制度、児童委員制度、家裁、労働委員会などが適切に機能していれば、差別・虐待事件の多くは本来、防止したり解決したりできるものではないのか。これら制度の空洞化を促し、放置しておいて、行政が直接関わる人権委員会がそれらすべての救済に当たるとするのは、行政のアリバイづくりではないのか。
読売試案は、このような問題点をまったく無視し、政府案を、基本的には人権を守るものとみなしている。これでは、この法案に反対する運動がすでに到達しているレベルでの人権保護の条件を満たすことにならないどころか、その足を引っ張り、運動の発展を阻害することになる、といわれてもしょうがあるまい。
3.「報道機関」への例外的特典適用による解決は市民のメディア不信を決定的にする
読売試案は、「報道の自由」と人権・プライバシーとを両立させ、そのどちらをも守ることに役立つものであるどころか、その両方を、大局的には政府の思惑のなかに誘導する役割を果たすものとなるだろう。すなわち、この試案による法案修正が行われ、法律が制定されれば、政府はこの二つの法律をうまく操り、「報道の自由」と市民の人権・プライバシーは、自分が許容できる範囲で守ればいいことになるからだ。
こうした枠組みのもとで、「報道機関」は、個人情報保護法に関しては他の民間個人情報取扱事業者よりは、規制を被る度合いが小さくてすむ特典を享受する。人権擁護法に関しても、「取材逸脱行為」などという曖昧な表現の基準によって規制を受けるだけだから、行政の裁量いかんで、負うべき責任が軽くなる可能性も出てくる。これらの条件は、「報道機関」にのみ特恵的に与えられる特典で、他の民間個人情報取扱事業者にはそうした条件は許されない。そして、これら他の民間個人情報取扱事業者とみなされるもののなかに、「報道機関」に属さない多くのライター、作家、インターネットを駆使する市民たちが入ってくるのだ。
これら「報道機関」に属さないライター、作家、インターネットを駆使する市民たちと切り離され、政府が許容する範囲での特典を独り享受することになる「報道機関」は、「報道の自由」の独立的な基盤を堅持していけるのだろうか。この特典は、「報道機関」と政府との協力関係がうまくいけばそれだけ、大きなものとなり、両者のあいだが険悪なものになれば、小さくなるメカニズムのもとに置かれている。このような特典に依存すれば、「報道機関」は結局、権力に引き寄せられていく力に抗することができず、みずからそちらににじり寄っていくことになってしまうだろう。これでは、「報道機関」に属さない人々や多くの表現とコミュニケーションの活動に従事する市民たちとの連帯は断ち切られ、そこから生まれる不信の深みのなかで、ついには読者・視聴者の信頼をも完全に失う事態に見舞われてしまうのではないか。
読売試案は人権擁護法案に関して、人権委員会の調査や救済措置に対して不服申し立てができる制度の設置を提言する。一見もっともなことのようにみえるが、元来この委員会が、行政機関=法務省の出先としての性格を払拭しきれず、独立性に疑問がもたれるところから調査や判定の中立性、措置決定の公平性に不安が残り、とくに法務省所管機関(たとえば刑務所とか出入国管理局)などにおける公権力の人権侵害に対して公正な処理ができるのか、疑問視されているのだから、このような人権委員会の調査・措置だけを捉えて不服申し立て制度の設置をいってもナンセンスであり、まずこの委員会をいかに独立的かつ中立的なものとし、それ自体に自主的な、大きな裁定機能を付与できるようにするかが、解決すべき要の問題となるはずである。
ところが読売試案は、この委員会の性格付けについて、これを、原案の法務省の外局に位置付けられる「3条委員会」としてではなく、内閣府の内部機関、「8条委員会」として設置する、という提案を行うのだ。しかし、それは、委員会に対する政府の責任は明確にするものの、委員会の政府からの独立性はほとんど奪ってしまうのだから、なにをかいわんやである。この段階からすでに読売は、人権救済は「報道機関」も権力の側に立って図ればよいのだ、とする立場を明らかにしているようなものだ。
人権救済に本当に役立つ独立的な委員会を創設しようとするのであれば、法曹家、社会活動家、研究者、ジャーナリストなど、民間が主体となり、コミッショナー制を採用するなどの新しい工夫が必要になるのではないか。「報道機関」はみずからも社内オンブズマン的な組織活動の経験を急速に成熟させ、それらの集団的な成果を踏まえて、このような新しい方向を模索、それを推進していくべきではないか。その方向でなら、「報道機関」に属さない表現者や広範な市民との連帯・協力の機会を、見出すことができる。
報道界は、読売試案をどう受け止めるべきか。それは、ウチではないヨソの社がやったことだ、ではすまされない問題になっている。読者・視聴者、市民は、報道界の今後のあり方全体を占う視点から、メディア企業、ジャーナリストの態度をみつめている。
一部修正で認められるようなものではない
須藤春夫 (法政大学教授/メディア総研所長)
読売新聞が発表した「個人情報保護法案」「人権擁護法案」の部分修正試案は、両法案の持つ根本的な問題点をそのままにして、メディア規制に関わる一部分のみを修正することで成立を認めようとする極めて問題ある提言といわねばならない。
「個人情報保護法案」についていえば、読売新聞が提言するような「透明性の確保」の原則を報道分野について適用を除外すれば「報道の自由」が確保できるとはいえない。同じ基本原則にある「利用目的による制限」「適正な取得」についても取材活動を著しく制約するものであり、ひいては「報道の自由」と「市民の知る権利」が阻害される。
そもそもこの法案は、検討経過からして問題をはらんでいる。本来、政府の有する個人情報をコントロールする法律として成立させなければならないものを、途中で民間と報道を含めたものにすり替わってしまった。したがって、保護すべき「個人情報」とは何なのかの議論が全く抜け落ちているために、報道取材に個人情報の保護をかぶせるというおかしな法案が作られてきたのである。
「人権擁護法案」についても人権侵害の取り上げ方がきわめて恣意的に扱われ、特に公権力による人権侵害は軽んじられているという大きな問題をはらんでいる。
このように、両法案とも、一部の修正をもってすれば成立が認められるような性格のものでないことは明らかである。法案の骨格を是認したうえで、メディアだけを適用除外にすれば良しとする読売新聞の提言は、自分たちの損得勘定だけで考えられており、市民権としての言論・表現の自由を守り拡大するという視点が全く欠落している。この修正提言は、政府の「部分修正で成立」という思惑に手を貸すだけでなく、市民のメディア不信をいっそう強める結果を招くことになる。二つの法案とも廃案とし、抜本的な見直しを図る声を更に大きくしなければならない。
不備な法案を温存する
隅井孝雄 (京都学園大学教授)
現在国会に上程されている個人保護法案はこれからの新しい電子情報時代にかかわるきわめて重要な法案です。
しかし現在の案では
1.電子政府、住民基本台帳にかかわる行政の個人情報乱用の歯止め、規制についてまったくルーズであり、事実上野放しである。
2. 企業の集積する個人情報に対する市民の側のアクセス権、監視権など、市民の情報権に対する認識が欠如している。
3. 新しい情報手段であるインターネットの今後の発展を規制し、阻害する要因ともなりかねない条項を含んでいる。
4. 報道への基本原則の適用は、言論、報道、取材の自由、市民の知る権利を侵害するものである。全面的に適用除外とすべきである。
という理由から、私は法案を全面的に撤回し、新しく見直すべきだと思います。
その意味で、読売新聞の提案は、報道への適用等一部に前向きの部分も見受けられますが、現在の不備な法案を温存することにつながり、また報道干渉への余地も残るとおもいます。したがって私は賛成しかねます。
読売提案について問題点の指摘は長くなりますので控えさせていただきます。
市民のメディア不信を深めてしまう
田島泰彦 (上智大学教授)
行政機関など国家が報道の中身に立ち入って関与している点など、法案は本質的に問題があり、廃案にして議論をやり直すのが正しいやり方だ。しかし、読売新聞の試案は自分たちのメディアにかかわる一部分だけの手直しで、法案全体の枠組みを変えていない。従来の主張を突然翻し、政府に迎合するような修正案しか出せないのでは「結局、自分たちの利害で身勝手にやっている」と、市民のメディアに対する不信を深めてしまう。
市民が法案の存在や疑問をようやく感じ始めたときに中途半端で妥協的な案を出すのは、廃案に向けたメディアや野党の動きに水を差すことになる。メディアが分断され、動きがとれなくなれば、法案を通す側の思うつぼだ。他のメディアはその問題点を指摘してほしい。首相が読売の記事に言及して修正を指示するのは、再販制度の維持など何らかの政治的な取引があったと思われても仕方がない。読売は唐突に主張を変えた理
由を説明すべきだ。
法案全体の問題点をもっと報道すべき
畑 衆 (新聞労連中央執行委員長)
読売新聞の修正提言について読者はかなり冷めているのではないか。この提言をきっかけに与党が小手先修正で両法案を可決させてはならな
いが、今回の提言に対する効果のプラス面とマイナス面はもう少し時間を置かないと判断できない。反対するだけで具体的な修正を提言をしないと読者から理解されないという危機意識が読売にあったとすれば、その点については是認できる。
それでもなお、たいへん気になるところもある。それは3点ある。
?個人情報保護法案にかかわる今回の提言は、新聞協会のこれまでの主張、つまり5つの基本原則から報道分野をはずせと訴えてきた点と異なる。協会の主張と異なったのはなぜか。5原則のうち「透明性の確保」だけ報道分野を除外するだけで取材源の秘とくが守れるのかという理由も含めて、その点が説明されていない。
?「人権・プライバシーの保護」と「報道の自由」という二つの重要なテーマの両立をどう図るべきか、という立脚点からの修正提言に過ぎない。これほどの重要法案をなぜ「報道の自由」という点からだけしか論じられないのか。紙面では説明されていないし、法案の内容を詳しく知らない読者ですら理解できないだろう。
?法案に反対しているのはメディアだけではない。修正提言を示すのであれば、そうした団体の意見を踏まえて出さないと広い共感を得られないのではないはずである。「提言報道」を旨とする読売にしては拙速の感を免れない。
メディアはおしなべて両法案の必要性を認めていながら、法案全体の問題点を十分に伝えてこなかった。「メディア規制法案」呼ばわりするだけでは読者も理解してくれないだろう。各報道機関は読売提言を受けて「ではどうするか」という問いに対する答えを用意しなければならなくなったと同時に、法案全体の問題点を報道する責務は一段と重くなったといえる。
明らかになった人権軽視意識
服部孝章 (立教大学教授)
2002年5月12日付け読売新聞朝刊は日本のジャーナリズム史に汚点として永遠に残るだろう。
その修正試案は、報道規制策にかかわる部分の修正に重点を置き、個人情報保護、人権擁護についてあるべきシステムを提示していない見解で、政府提案の根幹部分を認めたものでもある。
かつて同社は、「読売新聞憲法改正試案」を1994年11月3日付け朝刊で発表した。その経緯を特集した『THIS IS 読売』(同年12月号)で、「占領下の習性、その後の社共護憲左派勢力による自衛隊や国歌・国旗等の私生児扱いなどに見られた反体制運動と反米親ソ路線等の影響下で、政界、マスコミ界を通じて「違憲だ」と言えば、万事思考停止になってしまうという憲法タブー社会が半世紀も続いて来た。もはや時代錯誤的なタブーに挑戦し、繁栄の孤島に安住する知的怠惰を克服すべき時に来ている」と、憲法タブーに挑戦した「試案」であると位置づけている。
同社は、この憲法改正試案を検討する中で、世界人権宣言や国際人権規約に掲げられた人権条項が、現行憲法に欠落していると指摘し、「日本国憲法の今後を考える場合、人権条項の国際的な広がりを視野に入れる必要性が痛感される」(読売新聞社編『憲法 21世紀に向けて 読売改正試案・解説・資料』、P.229、同社、1994年11月)と記している。
この改正試案と今回の修正試案との整合性はどうなのか。この5月12日の同紙には、「個人情報保護法案と人権擁護法案に対する今回の修正試案は、本社自らがまとめた憲法改正試案との整合性を念頭に置いた」との解説がある。若干整合性があるのは人権・プライバシーの保護の部分で、そこではその姿勢が貫かれているともいえるが、国際人権規約等に見られる人権条項については、政府案に対し修正を求めることもなく、なんら触れていない。
ということは、この修正試案にみられる姿勢こそが、読売新聞のめざす「個人情報保護・人権擁護」のあり方となることを確認しておかねばならない。表現規制について、同社の修正試案により「政府案以上に行政の介入を排除できる」(5月12日解説記事)とする認識にこそ、表現分野への行政介入を当然視する姿勢を見て取れる。
国際機関から指摘され続けてきた独立した人権救済機関の設立、公権力による虐待、代用監獄問題、解決を迫られている多くの課題を解決しようとすることもせず、国際社会では例を見ないメディア規制案をこれらの法案に盛り込む、権力志向の状況を一部是認する姿勢を批判しなければ、行政に取材・報道の是非の判断をゆだねる社会の到来を承認することになる。
報道機関は読者、視聴者そして市民に顔を向けた存在であるはずだ。しかし今回の読売新聞の修正試案提言は、ベクトルの方向を間違えたものであり、読者を間違った方向に誘うものでもある。同時に権力を監視すべき報道機関のあるべき姿を変え、権力に迎合する姿勢を歴史に残した提言である。こうした「社論」に、同社の従業員、ジャーナリストは意見の表明を封殺されたままなのか。同社の社内言論の自由の行方を見守りたい。同社OBの前澤猛氏の『表現の自由が呼吸していた時代 1970年代 読売新聞の論説』(コスモヒルズ刊 2002年3月)への回帰は困難なのか。新聞協会や民放連などをはじめ個々の報道機関も反対の見解を発表している中で、こうした読売提言を正面から攻撃しないのであるならば、経営至上主義の発想から、いつの日か政府提案を承認することになるかもしれない。ともかくも、そうした事態を回避すべく、徹底した読売提言検証・批判と個人情報保護のあり方、そして人権擁護のあり方等を模索し続けることこそが、ジャーナリズムに求められている。
会長自ら新聞協会の方針への裏切り
原 寿雄 (ジャーナリスト)
5月12日に発表されたメディア規制二法案に対する読売の修正試案は、新聞協会会長自ら協会の決めた反対方針を裏切るもので、信義にもとる。自身が責任者として協会の総意で決めたことを、弊履のように棄てて省みないとは、人間の品格を疑わざるを得ない。このような人物を新聞界代表として戴く日本ジャーナリズムの現状を深く悲しむ。だが、ことは言論・表現の自由の命運、日本の民主主義にかかわる重大事であり、放置し得ない。小泉首相はすばやく呼応して政府案の修正検討を指示したが、読売修正試案は窮地の小泉政権を救い出すための救命ブイを投げたものであり、表現の自由を侵す二法案の危険性を除去するものでは全くない。ジャーナリズムが監視すべき対象が逆にジャーナリズムを監視する本質は変わらない。
読売修正案は、個人情報保護法案の基本5原則のうち「透明性の確保」は取材源の秘匿を脅かすからと、報道分野に適用しないよう求めている。他の「利用目的の明確化」「適正取得」「安全性」「正確性」はメディアにも努力義務を認めている。これは新聞協会が昨年3月に政府に出した意見書で「法の適用から全面的に除外する」よう求めた方針に反する。協会理事会が「報道機関を監督する主務大臣を置くような同法案に断固反対」の緊急声明を改めて出したのは、国会で提案理由説明が始まる前日、4月24日のことである。読売案は「政府がジャーナリズムに介入できる」法案に対し、受け入れを表明したものである。
また修正案は二法案とも、表現の自由への配慮条項を「妨げることがないよう配慮しなければならない」から「妨げてはならない」に変えているが、主務大臣が「十分配慮した」と言えばそれ以上「自由の保障」を担保するものはない。言葉のあやで本質を隠すな、と言いたい。
人権擁護法の他の修正点も表面的なものに止まる。政府案が特別救済を発動する過剰取材について「つきまとい、待ち伏せ、立ちふさがり、見張り、押しかけ、電話・ファクシミリ」の反復、継続を対象にしているのを、「取材逸脱行為による人権侵害」に言い換えようというものである。これでは拡大解釈の危険度を増すだけではないか。第一、新聞協会は今年3月、NHK、民放連との共同声明でも、差別、虐待と同列に報道による人権侵害を扱う点を「政府機関による報道への干渉につながる恐れがある」とし、反対の意向を表明している。この声明を政府に手渡した時の新聞協会代表は読売の社会部長である。
修正案が人権擁護法案に不服申立て制度を求めるのは良いとして、人権委員会を法務省の外局から内閣府の一部局とする修正案は、大臣の責任体制を明確にする一方で独立性を弱める。
法務省資料の海外14カ国の例にメディアを対象にした人権救済機関はない。
民主主義への背信である
報道の自由を求める市民の会
去る5月12日、読売新聞社は自紙上に、個人情報保護法案及び人権擁護法案の政府案に対する修正試案を公表した。
この2法案は、言論、表現および報道の内容を政府が判断し規制し得る条項を含むことから、早くから多くの市民、関係者がシンポジウムや学習会等を重ね、反対を表明してきた。個人情報の保護も人権の擁護も、誰しもその喫緊の必要性は認めながらこれほど広範な反対が巻き起こったのは、法案の中味が、その必要とされるものとはおよそかけ離れていたからだ。
即ち、前者は、「行政機関個人情報保護法」と併せ読めば分かるように個人情報の集中する行政機関に対してはより甘く、結果的に官が民を取り締まるものとなっている。さらに、最も配慮を要するセンシティブ情報について収集等の禁止も盛り込まれないなど、その不徹底さが指摘される一方、言論、表現及び報道の領域にも広範に網を掛け、政府が直接この領域に立ち入ることを可能にするものである。また、後者は、国民が求めるのは公権力による人権侵害をも防止する高い独立性を持つ機関であるのに、法案ではその手当は全く不十分であるばかりか、「メディアによる人権侵害」を大きく扱うことにより、ここでもまた、言論、表現、報道への政府介入を許すものとなっている。
こうした問題性は、関係者や市民から素案もしくは中間報告の段階から指摘されていたにも関わらず、政府与党は今国会に法案を提出、成立を目指すことで合意した。ところが、その国会は、冒頭から外務省と鈴木宗男議員を巡る疑惑の解明に費やされ、加藤元幹事長前事務所代表の脱税事件、複数政党にまたがる秘書給与流用問題等々で混乱を極め、また、瀋陽日本総領事館の事件から新たな外務省問題も噴き出すなど、いまだ法案の実質審議が行われる環境は整っていない。
このような状況下、最大部数を誇る新聞社が修正試案を公表したことの意味は、誰が見ても明らかである。法案成立が危ぶまれはじめるなか、やっと審議入りしたいまのこの時機に形ばかりの修正案を出すなら、政府はそれを取り入れることで実を取り早期成立を期すことは目に見えているからだ。事実、小泉首相は即座に検討するようにとの指示を出したと伝えられている。
読売は、まさしくこのような効果を予測して、修正案を出した。何の意図もなく、結果に対する何らの見通しもなかったというほど彼らが愚昧なはずはないのである。とすれば、明らかにこれは、読売新聞が政府と一丸となり、報道を取り締まるための法律の制定に協力している以外の何ものでもない。まさか、いやしくも報道機関たる読売が、これほどあからさまに政府に取り込まれることを望み、その自由と独立を放棄しようとは、私たちは思ってもみなかった。
いったい、「報道の自由」とは、何からの自由なのか。
読売の修正試案によれば、個人情報保護法案は、基本5原則のうち「透明性の確保」のみの適用除外が提案されている。では、読売は、政府から「利用目的による制限」を受けても構わないのだろうか。適正な取得であるかどうか、正確であるか否か、政府に判断して貰うというのだろうか。さらに、人権擁護法案の修正試案では、何が「取材逸脱行為」であるかの判断を政府に委ねるのか。自主機関を設置して自律的な問題解決を図る能力はないので、政府に一任しようというのか。また、この法案は、公人と私人の区別をしていないが、読売は公権力を監視するつもりがないので、それも受け入れるというのか。公人がみだりに人権侵害を言い立て、政府が恣意的にこれを認めることがあれば、それはそれで構わないというのか。
しかし、ことはそれだけでは済まないのである。読売が進んで政府の判断に従うのは勝手であるとして、その修正試案という協力で法案が成立する場合、幾多の表現者や報道人の自由が侵害されることになるからだ。また私たち表現物や情報の受け手にとっては、多様な文化の享受、情報の取得を阻まれることになるからだ。
報道の、政府からの自由と独立は民主主義の根幹をなす重要な要素である。
だからこそ、これまで多くの国々で人々は圧政から逃れるために報道の自由を渇望してきた。そして、今もなお、独立を果たした国あるいは紛争の収まった国では、何よりもまず報道の自由を確立しようとするのである。それなのに、曲がりなりにもその自由を憲法で保障されたこの国で、こともあろうに、報道機関自身が進んで政府に協力し、この貴重な価値を惜しげもなく投げ捨てようとは。
今回、読売新聞がこの時機に、政府が最も喜んで飛びつきかねない修正試案を公表したことは、民主主義に対する恥ずべき背信行為であると、私たちは断ぜざるを得ない。そして、政府によって歪められない情報を受け取りたいと願う市民として、私たちは、限りない失望と憤りとをこめ、強く、つよく抗議したいと思うのである。
信じ難いジャーナリズム冒涜行為
前澤 猛 (東京経済大学教授)
メディア倫理の問題はメディアの自主性に委ね、公権力の介入を許さないのは、自由社会、民主主義国において当然過ぎる常識である。その観点から、日本新聞協会は挙げてメディア規制2法案に反対すべきであり、また、現に反対している。にもかかわらず、その会長が自社提言で率先して「法制の整備は急務」と主張し、細部の修正で政府案に擦り寄り、法成立に助力するとは、信じ難いジャーナリズム冒涜行為だ。
こうした事態が発生する背景には、「表現の自由」の優越的地位が確立しておらず、権力監視が弱いうえ、権力と癒着しがちな、日本のジャーナリズムの特質があり、またその事実に対するジャーナリストの自覚欠如がある。
私は、こうした、ジャーナリズムの改革とジャーナリストの反省を促し、メディアが挙げてメディア規制法案と対決するために、各社はもちろん、日本新聞協会は、読売提言を真正面から批判し、同時に渡邊恒雄氏の新聞協会会長不信任を決断すべきだと思う。
マスメディアの“横暴”はゴメンだ
吉田 司 (ノンフィクション作家)
読売試案は、個人情報保護法案に対しマスメディアがいかに不勉強であるかを満天下に暴露して“赤っ恥”をかいたと言って良い。不勉強でなければ、この試案を起草した人物は相当に頭(オツム)が弱い。個人情報保護法案の本質は、メディア規制にあるのではない。それは、自民党スキャンダル派が、森内閣のときに“取って付けた”付属物にすぎない。本当の危険性は、「5000名程度の個人データを持つ者は、〈メディアに限らず〉誰でも〈個人情報取扱事業者〉にされ」国家の情報統制下に置かれるという、コンピュータ時代における《国民管理法案》(=電子的・治安維持法)となっている点にある。インターネット上における市民的「発信と受信の自由」を規制する、電子グローバリズムへの反動法案と言い換えてもいい。
読売試案なんかでウカウカ修正・可決させたら、マスメディアの利益(報道の自由)は守られたが、市民の「表現の自由」は絶滅した――ってな“暗黒の国民国家”を招きかねない。読売新聞を親分にしたマスメディアの“横暴”だけがはびこる世の中は、ゴメンである。